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2018/09/01 容態急変

22:30

明かりを落としたベッドルームで電話が鳴った。
「成田赤十字病院」
黒い画面に白い文字が浮き上がる。息が詰まる。電話に出る。口が渇いている。
「容態が急変しました。今すぐ病院に来てください」

慌ただしい出発に、「まずは私が見に行きます。病院で状況を見てすぐに連絡します」と義父母に電話をかける。七十も後半を過ぎた義父の運転を心配していた。病院までは片道二時間、しかも夜の高速道路だ。「容態急変」の言葉の意味もわからずに。

間髪入れずに妹の茉奈まなに電話をする。出て。お願いだから出て。暗い田舎道。病院までは、どんなに急いでも一時間はかかる。無事で、最速で、着かなければ。ハンドルを持つ手が、全身が、震えて止まらない。支えが必要だった。たったひとりでそれができる気がしなかった。茉奈、お願いだから出て。

「もしもし」

茉奈は家にいた。つながった。暗い車内に遠く実家の声が響き、全身の震えは少しずつ少しずつ収まっていった。茉奈と父の声に支えられて、一時間の暗い道のりをひた走った。


病院の暗い廊下を進む。ナースステーションは慌ただしく、心拍を表す電子音が鳴り響いている。看護師さんがひとり駆け寄って来る。すぐに状況説明が始まる。

22時20分頃。見回りの看護師さんが起きていた夫・そうくんに声をかけた。「痰がつまる」との訴えに、痰吸入器を取りに行く。戻ってくると、彼は吐血していた。「血が、血が」。そう発した直後に、目が反転した。
大動脈が破裂した。

そこから心肺蘇生(胸骨圧迫)を行なっている。これを続けることでのみ、「心臓が動いている」状態が保たれている。胸骨の圧迫を続ければ、破裂した箇所から血液が体内に出続け、肋骨などにも損傷が生じるかもしれない。家族のみが、この心肺蘇生を「止める」決定ができる。

個室のドアは開いていた。緊迫した室内にはたくさんの人。その中心に、胸骨の圧迫をする先生の動きに上下する肉体があった。医療器具や看護師さんたちで、その顔は見えない。先生が私に気づき、目が合った。長いようで一瞬の間。胸骨の圧迫は続く。枕元近くにある血で満杯になろうというボトルに目がとまった。「すでに二本目で、それだけの出血が進行しています」、誰かの声がした。

ベッドを中心とした緊迫のバリアに、入り口からたった一歩のところで立ちすくんでいた。言葉も考えも思いも無く、今ここで、なにがおきているのか、なにがおころうとしているのか、ただ目の前にして、ただ刺激に晒されている、ただそれだけだった。

「どうしますか?」
看護師さんの静かな声がする。いくつかの呼吸のあと、頭を下げた。
「夫の両親が向かっています。到着まで、心肺蘇生を続けてください。お願いします」

急性大動脈解離でこの病院に緊急搬送されてきたのは、ちょうど一ヶ月前の八月一日のことだった。緊急手術からの術後悪性高熱症を起点に様々な合併症に翻弄されながらも少しずつ回復を遂げ、手術から二週間でICUから個室へ、そして今日ついに、個室から一般病棟へ移る話が出たところだった。

幼顔に眼鏡の先生の頭が上下運動を繰り返す。交代は、するのだろうか。でなければ、二時間半以上も心肺蘇生を続けてもらうことになる。見込みがないのに。

それでも、義父母が対面するまでは「生きている」という事実を残したかった。絶対に。「生きている」という事実の中で、ひとり息子に会ってほしい。

「分かりました。続けます。到着されたらお知らせください」
深く頭を下げる以外、なにができただろう。
義父母はすでに病院へと向かっていた。あと一時間ほどで着くだろうか。

23:50

誰もいない暗いラウンジで、父に再び電話をかける。

「これで良かったんだよね?」

義父母が到着するまで心肺蘇生を続けることに、迷いなんてただの一ミリも無かった。それでも誰かに、父に、「良い」って言って欲しかった。

「それが良いと思うよ」

「親」という立場からその言葉を聞いて、呼吸が少し楽になった気がした。

「ダメみたいだ」
茉奈にそれだけ送り、あとは病院の駐車場に入る通りを見下ろしていた。
義父母の車の姿が見えるその瞬間、ただそれだけを待っていた

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