自己紹介:「キャタピラスープの1000日」
「忘れないで。わたしを忘れないで、置いていかないで。」
その声は、たしかに聞こえたのだ。
はじめは、午前中の明るい日差しのなかで。
つぎは、その夜。温かなお風呂のお湯のなかで。
それは、「あの頃のわたし」の声だった。
悲嘆の日々を記すこと
2018年の夏。最愛の夫が、あちらの世界に旅立った。
出会いからずっと一緒だった10年の「私たち」の日々は突然終わりを迎えて、真っ暗闇の、いわゆる「悲嘆の日々」が始まった。
「死」は遠かった。なのに突然目の前に降ってきて、そこら中に広がって、もう溺れてしまいそうだった。なにがおこっているんだ。
何が起こっているのかを掴みたい。だから記録をし始めた。病院で言われたこと、目の前で起こっていること、友人や家族の言葉。そして何よりも、自分の感情や思考、戸惑いに喚きに嘆きを。それらは悲嘆の大洪水となって今にも溢れんばかり。いや、もう出ちゃった、溢れちゃった。なんとか言葉となって。
ほぼ毎日書いた、言ってみれば、観察日記。
悲嘆をなんとか生きるあの頃のわたしを支えたものは数多くあれど、この日記の存在は特別だったように思う。
「言葉にする」という行為は、「聞く」という行為でもある。嘆き悲しむその感情にすっぽりハマる言葉なんて、わたしは見つけられない。それでも、なんとかその感情に耳を意識を傾けて、少し違うかもだけど…、なんて思いながらも、言葉にして書き出していく。「こういうこと?かな?」探り探りに書き出された言葉を、目が追う。そこには、読む、という行為があり、それは「受けとめる」という行為でもある。
こう言い換えることもできる。
嘆き悲しむ真っ暗闇にいたわたし。その側には、いつだって「もうひとりのわたし」が側にいてくれた。言葉にならない感情に耳を傾け、言葉にしてくれて、それを「そのまま」で受け止めてくれる、そんな「もうひとりのわたし」が。
「そのまま」を受け止めてくれて、いつだって側にいてくれる。それは、愛のひとつの形なのではないかと、今のわたしは思うのだ。(その時はそれどころではなかった)
その愛の行為は、(結果的に)自己を癒やす、という行為であったように思う。
「キャタピラスープの1000日」
2021年の5月。ずっと待ちわびていた「春」が、死別から3年目にしてやってきた。あとから数えたら、1000の日々が過ぎていた。
あの悲嘆の日々を、「キャタピラスープの1000日」とここに呼ぼう。
青虫は一度溶けて蝶になる。蝶になるかどうかは分からなかったが、死別を境に、「わたし」の根幹を構成していたものはどろどろに溶けてしまった。価値観やアイデンティティ、この世界や宇宙の認識、死生観、といったものが。いわゆるパラダイムシフト、と言われるやつだ。
すっかり引きこもって、自分のなかに深く深く潜っていった。
青虫や蚕が自らつくりあげた繭や蛹のなかでどろどろに溶けているように。
2021年に入って、実際の繭をつくりはじめた。彼の遺品となった洋服や靴やバッグやを使って。
遺された彼の洋服を積み上げて、そのなかでもうずっと眠っていたい。
それは、死別から数ヶ月後くらいからずっと思い描いていた場所だった。
実はこの頃、「遺品整理」ができないことに悩んでいたのだ。物持ちだった彼にはたくさんの身の回り品があった。三回忌を経て、そろそろ「新しい生活」を始めるときなのも分かっていた。でも、でも。「捨てる」がどうしても出来なかったのだ。
だから「捨てる」まえに、写真にのこすことにした。
「あ」
つくろう。だったらつくろう。ずっと思い描いていた、あの場所を、わたしの「繭」を。
彼の洋服でできた繭に入って目を閉じて、じっとした。ずっとずっと、そうしたかったんだ。
写真を撮り終えて、一枚一枚手に取っては「ありがとう」と畳んで箱に詰めた。車に積んでリサイクルセンターに行き、その足で「さよなら」と手放すことができた。そこには涙も葛藤も苦しみもなかった。それがもう、自然だったのだ。
「わたしの遺品整理」のやり方が、分かった瞬間だった。
まだまだ、遺品はたくさん遺されていた。よし。じゃあ同じように、繭をつくろう。夫が倒れたその日から、913日目のことだった。
日記を公開する…?
そんな1000の日々を記した日記。言うても日記。あまりに私的で、しかも内容が内容だ。泣き喚き後悔にまみれ、なにより扱っているのが「死」とか「悲嘆」とかだ。公開して共有するなんて重すぎでしょ、と、当初はもちろん思っていた。だから、ごく身近なひとだけに見せていた。身内とか、親しい友人だけに。
でも。
思い返せば、悲嘆の真っ只中にいた私の心を支えてくれたのは、ひとつのブログだった。2016年に、同じように若くしてパートナーを亡くされた「ぺろぽんた」さんの記す「突然すぎる夫の死を乗り越えるために実践したこと」。死別から1ヶ月、3ヶ月、半年、一年後、と、その時々の彼女の姿に、あの真っ暗闇の中にいたわたしは、唯一ともいえる希望の光を見ていた。
そして。
聞こえたのだ、あの声が。
「忘れないで。わたしを忘れないで、置いていかないで。」
それは、透明な叫びだった。
忘れないよ。忘れない。
忘れないし、置いていかない。
だけど。あのキャタピラスープの日々が第一章だとしたら、繭を出たわたしは第二章を生きていた。そう、「あの頃のわたし」を、置いていきそうになっていたのだ。
あのかなしみの日々の記録を読み返す日々が始まった。
その悲嘆に喘ぐその姿は、あまりに悲しくて哀しい。
だけれども。
日記を清書しながら気がついた。そのかなしみの姿は、美しくもあることに。そして、重なるように静かに浮かんだ気持ちは「愛おしい」だった。
日本語の古語には、「かなし」ということばに「悲し」「哀し」だけでなかく、「美し」「愛し」という漢字をあてたことを知ったのはそのあとだ。(「悲しみの秘義」を書いた若松英輔さんの著書で知った)
ひとは生きる。死を内包して。
その姿は、だからこそ、哀しくて美しい、そして愛おしい。
この私的な物語を、この世界にそっと置いてみます。
読んでくれて、どうもありがとう。来てくれて、どうもありがとう。