2018/08/02 月に願いを
10:45
面会の時間まであと30分。
一階にドトールがあったので、ホットドックとアイスカフェラテの朝食を取ってみる。
目の前に置いたiPhoneの画面にはヒビが入り、液晶は半分真っ黒になっている。昨夜、手術を待つ間に床に落とし、こんな無残な姿になってしまっていた。思いつく限り、最悪のタイミングだ。タッチもタイプもできない。けれども、不幸中の幸い、Apple Watch で電話の応答や音声でのやり取りはできる。持っててよかった、Apple Watch。
ビッケはどうしているだろう…。初めてのひとりの夜を過ごさせてしまった。帰ってあげられなくて、本当にごめん。
今日の夕方は、ゆっくり散歩をしてあげよう。
お義母さんから電話が入る。
「明るくなる頃に無事着いた」とのことで、本当に良かったと安堵した。
見送る時にはあんなに心配していたのに、電話があるまでそのことを考えず連絡もせずだなんて、私の頭はどうなっているんだ。
脇に置いた亮くんのiPhoneとお財布に目をやる。亮くんの結婚指輪すら、今は私が持っているのだ。非常事態。常に非ず。「家族」として、手術の同意書にサインした時のあの感覚をまた思い出す。
14:19
家に帰り着いた。
ビッケは見たことの無いレベルの大興奮を見せた。
初めてのひとりの夜を、ビッケはどこで寝たのだろう。どう過ごしたのだろう。
声を上げて泣いた。思いっきり。
大動脈解離について調べ始める。
緊急手術を行わない場合は「48時間で50%が死亡」するという非常に重篤な疾患であることを、初めて認識する。いや、置かれている状況を、やっと認識し始めていた。
病院着前死亡は61.4%に及ぶ。発症から死亡まで1時間以内7.3%。1~6時間は12.4%、6~24時間は11.7%であり、病院着前死亡とあわせると、93%が24時間以内に死亡したことになる。
上行大動脈に解離が及ぶStanford A型は極めて予後不良な疾患で、症状の発症から一時間あたり1~2%の致死率があると報告されている。
「93%が24時間以内に死亡」。
「背中が痛い」が午前9時頃で、手術が18時半。
その間、約9時間半。
思考が、静かになる。
よくわからない。
合併症の危険性もあるらしい。
意識がそのまま戻らなかった人の話も出てくる。
何もする気になれなかった。
あの時、もっと早くに市立病院に連れて行ってあげていれば…
胸が苦しくて潰れそう
このまま意識が戻らなかったら
18:58
亮くんがいないと寂しいよ。本当に寂しい。
私が家にいて亮くんが家にいないことなんて、これまであっただろうか。
100%在宅ワークの亮くんは、とにかく家が好きで、千葉のこの地に引っ越してからは友達とすら遊びに行かなくなっていた。あれだけ社交的でストリート的で海にスケートにスノボーに展示会に飲みにと多くの友人と遊んでいた亮くん。あまりの違いに、クラクラしそうだ。
亮くんが家にいなかった日を数えてみる。たった3回だった。
いつだって、亮くんは大好きな家にいた。
ビッケがいて良かった。
でもビッケも、亮くんの不在に戸惑っているのだろう。
こんな日々を、ここからどう過ごそう。
ストレスが強すぎて、今は考えたくない。
ごはんを食べないとと思うけれど、とても億劫だ。
せめて亮くんと会話ができれば、亮くんがこの家に戻ってくる日に向けて、日々を頑張れると思うのだけれど。
これが、まだ2日目だなんて。
19:50
ちょっとタイミングを逸するだけで、少しだけあった食欲もまたずいぶん遠くに行ってしまう。
明日、ビッケはどうしよう。亮くんが目を覚ます時には、その時はそこにいたい。絶対にいたい。
食べるということがとても難しい。
今は、家族みんなと話すことで、なんとか保っている感じだ。
寝室では寝たくない。辛すぎて、ひとりでなんて寝たくない。
20:44
辛い辛い辛い辛い…
今日はずっと、泣いてばかりいる
ビッケが、階段の踊り場から玄関を見下ろしている
亮くんの帰りを待っている
少しだけ白ワインを飲んでから、はっとした
もし病院から電話があったらどうするんだ
一番不安だったのは、亮くんだったはずだし
今だって、一番不安なのは亮くんなんだ
泣き崩れてなんかいちゃいけないのに
明日は目を覚ますかもしれない
ちゃんと自分を自分で支えられるように
支えなきゃいけないのに
バチが当たったのだ
時を戻せるのなら
あの朝に、戻れるのなら
あの苦しむ姿を見て、
ただごとではないと、
肉離れなんかじゃなくて、
ぎっくり背中なんかじゃなくて
なんでもっとちゃんと調べなかったのか、
なんで市立病院を選べなかったのか
もっと時を戻せるのなら、
どうしてもっと真剣に、
食生活の改善ができなかったのか
過去を責めてたって、何も変わらない。
そんなことはわかっている。
21:20
調べると落ちる一方。やめよう。
22:04
叔母にSOSで電話をする
だれかに、だれかに、「大丈夫だよ」って、言って欲しかった
窓の外に浮かぶ月に
ひざまづいて強く手を合わせる
亮くんを、私から取り上げないでください
ごめんなさい、本当にごめんなさい、お願いします
24:05
ナホと話し、ハナと話す。
呼吸も苦しく感情の波に溺れそうになっていた私に、ナホは、もしかして足がつくかも、と、気づかせてくれた。
ハナは、休みを取って来てくれることになった。
本当に、たくさんの人に支えられて、生きている。