2018/08/14 「亮が笑ったんだ」
8:57
面会に行くかどうかで悩む。
人工呼吸器は外れたのだろうか?
今日外すことができるのだろうか?
行かないとすれば。
洗濯をして、溜まった家事ができる。
ビッケは寂しい思いをしないで済むし、疲れも少し取れるだろう。
夕方には面会に行ったご両親から電話が入り、亮くんの様子を伝えてくれるはずだ。
行くとすれば。
人工呼吸器が取れて、亮くんの声を少しでも聞けるかもしれない。
あるいは、まだ外せずに、あの苦しむ姿をまた見ることになるのかもしれない。
例えそうだとしても。
苦しいだろう時に、少しでも側にいてあげたい。
手を握りたい。体に触れたい。
亮くんの目に、見つめられたい。
12:07
だからやっぱり、面会に来た。
亮くんは、今日も頑張って口を動かす。
声にも言葉にもならない「それ」を、やっぱり分かってあげられない。
伝えたいその思いだけは伝わってくる。もう痛いほどに。
S先生に数値を見せてもらい、合わせて見解を聞く。
悪くなる一方だった腎臓の数値は、ようやく下がり始めた。
肝臓も、肺炎も、良くなってきている。
白血球のみ数値は悪いけれど、管を抜くために投与したステロイドと因果関係があるとのこと。
だとすれば、「すべて良くなって来ている」と言える。
大きく大きく、安堵する。
状態が良くなっている。
であれば、人工呼吸器を、今日にでも抜くことができるのだろうか?
酸素濃度はどうなんだろう?40か50あれば抜けると先生は以前言っていた。
「酸素濃度は、51にまで下がりましたね。もう2週間も人工呼吸器付けているから、そろそろ、15時くらいに抜いてみようかと。」
15時!
夕方の面会では、人工呼吸器が抜けているかもしれない…!
夕方には、亮くんの声が、言葉が、聞けるかもしれない…!
その可能性に飛び跳ねそうになった直後、家にひとりでいるビッケの姿が浮かんだ。
保護施設からうちに来て、家族の一員になって4年。
「家にひとりお留守番」なんて、ほとんど無かった。亮くんはいつも家にいたのだ。
そこに来て突然、ほぼ毎日、しかも長時間のお留守番だ。
家に帰ってあげたい。でも、…。
12:44
亮くんの声が、聞けるかもしれない。
浮き立つ気持ちでエレベーターのボタンを押す。
ふわふわと、最上階にある食堂まで浮き上がった。
初めて来る食堂。今日の日替わりは豚の梅肉炒め定食か。
良い。梅肉の酸味に惹かれる。美味しそうだ。
眼下に広がる成田市内をぼーっと眺めながら、気づけば梅肉炒めを完食していた。
食べた。よく食べた。
とうとう食欲が戻ってきたのだ。
午後の面会
5時間半の面会の合間。少し走って温泉へ行くことにした。
いつか行ってみたいと亮くんと言っていた成田の温泉。病院から20分弱の距離だ。
平日のお昼間、しかも8月の夏真っ盛り。
それは人もまばらだ。
露天風呂に浸かって、一息つく。
一面に広がる田園風景の緑。青い空に、流れる白い雲。
温まった体に、風が気持ち良い。
遠く向こうに、電車が音もなく風景を横切っていく。
亮くんの姿。人工呼吸器。腎不全。これから。
頭の中で、現実や心配事が次から次に展開していく。
それに気がつくたびに、「今この時」に気持ちを向け直した。
頬や肩を抜けていく風。お湯の温かさ。揺れる稲穂。「今」。私が感じているこの事実に。
何度も。何度も。
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一階ドトール前にあるテレビでは、高校野球がやっていた。横浜の活躍を見ていたご両親が近づいてくる私に気づき、笑顔で手を振る。
面会時間まで15分。
ICUのある二階に上がる。
その姿を見て、看護師長さんが駆け寄ってきた。
「お昼過ぎに人工呼吸器が外れましたよ!」
この2週間、亮くんはもちろん私達のこともずっと気にかけてくれている看護師長さん。
走ってくる姿、弾む声、嬉しさ溢れる表情。
胸がいっぱいで、感謝の想いを伝える以外、何を言えただろう。
息を弾ませ駆け寄ってくる彼女の姿を、私はきっと一生忘れないだろう。
午後5時30分。
ドキドキしながら、ICUの入り口前でお呼びがかかるのを待つ。
名前が呼ばれ、入念に手を洗って、亮くんのもとに向かう。
蒸気の出る吸入器を口元に当てた亮くんが、入ってくる私たちに気づきこちらを見る。「人工呼吸」を離脱したその姿に、胸が詰まった。
亮くんはすでに何かを言おうとしている。ドキドキしながら、口元に耳を寄せた。
2週間ぶりに発する声は、ささやき声で、なのに早口。しかも痰が混じりやすく、極め付けに脈絡がない。
つまりは、やっぱり何を言っているのか分からない。
いや、言葉の意味はもはや置いておこう。
言葉ではない、何か通じるものがあったんだ。
笑顔も見れた。
だけじゃなく、良くやる変顔をした。
吸入器越しに。
亮くんが戻ってきた!
涙で目の前が滲む。ぱっと天井を見上げた。
最初に理解できた亮くんの言葉は「Sさん…大丈夫」だった。
Sさんは大家さん。「家賃も払ったし、Sさんはウッドデッキも片付けて芝刈りまでしてくれたんだよ!」と言うと、なんとかかんとか(聞き取れない)、サーフィンなんとか、で、「最高だね!」と締めた(笑)。
いろいろ言っているけれど、イマイチなにを言っているのか分からない。
看護師さんを見て「今の誰?」。帰り際には、「ここはどこ?」。「成田だよ」と返すと、それは驚いた顔をしていた。「帰るね」と言うと、「歩いて帰るの?」と言う。成田から我が家までは歩いて7時間半(mapsで調べた)。「無理だよー(笑)」皆で笑って、すっかり場が和んだ。
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「亮が笑ったんだ。お祝いに鰻を食べよう」
面会が終わり3人で行った味の民芸で、笑顔の義父が特別メニューの鰻重を指した。じーーーん(涙)。「そうしましょう!私も鰻重にしますっ!(泣笑)」私が続けると、義母がニッコニコな笑顔で「私はこれにする♡」と、天重を指差した。
亮くんのご両親が好きだ。
鰻重と天重を食べるふたりは、「これ美味しいわよ」「これ美味しいよ」と、少しずつ分け合っている。連れ添って半世紀が経っても、ごく当たり前に肩が振れる近さで座り、ごく当たり前に美味しいものを分け合う。
このふたりの息子だから私の大好きな亮くんなんだ。
亮くんが今、ここにいてくれたら。
ぐっと喉が詰まったけれど、視線を上げて、ふたりを見て、深めにひとつ、呼吸をしてから、鰻重に箸と気持ちを戻した。
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人工呼吸器が外れることが、ひとつのベンチマークだった。
意識が戻った本人への苦痛はもちろんのこと、2週間に渡った人工呼吸器装着による影響を先生は懸念してるようだった。
状態がまだまだ悪い腎臓のさらなる尿量の減少につながったり、心血管系における血圧低下、肺、肝臓、中枢神経、胃、腸管など、人工呼吸器装着による影響は枚挙にいとまがない。
人工呼吸器を外す「適切なタイミング」を見極めるのが重要で難しいようだ。遅過ぎれば、上記に加え喉(気管)に入れているチューブによる気道損傷など、さまざまな影響のリスクが増えるし、一方で、早過ぎれば再挿管のリスクが増える。
亮くんの「適切なタイミング」は、手術からちょうど2週間で訪れた。
人工呼吸器が外された、ということ。この急性期をようやく脱した、とも言えるんじゃないかな。
長い2週間だった。