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【第60回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉


第60回『ランビエの絞輪』終章 オートファジー7

 刑事課の喜多川の席に通されると、舞は、室内をそっと見渡した。会議前なのか、喜多川の席の周辺には、誰もいなかった。
喜多川は自席に着くと、モニター画面を切り替えた。錦城の生前の行動が表示される。
「先週の日曜日に、大学時代の先輩と、打合せがてら《ザ・タイム》でランチしましたよ。見晴らしが良くて、気持ちがいいですね」
 モニター画面には、錦城がサナトリウム病院に出入りしていた事実が映っていた。サナトリウム病院は、ザ・タイムからほど近い場所にある。喜多川の口から、病院名を発せられない。敢えて舞の伯母夫婦が経営する、《ザ・タイム》を話題にしたと思われる。
「背の高い、ショートカットの女性が、伯母ですよ」
 適当な言葉を返しながら、舞は、素早くモニター画面の内容を記憶した。暗黙の了解なのか、喜多川が時々、画面をスクロールさせている。二人は、そのまま、雑談を交わした。
 錦城と被疑者は、以前から、面識があった。サナトリウム病院は、一部の富裕層患者が、お忍びでやって来る事実でも有名だ。佐伯桐花が、酒造会社の創業者一族の直系であれば、頷ける事実だ。
 以前、荒垣から、被疑者の血液サンプルから、ボルテキセチンが確認できたと聞いた。ボルテキセチンは、先日、発表された新薬《モーニスコプラ》の主成分だ。
 芦屋医大が厚労省に提出した、公の治験データには、対象となった患者のリストがあった。そのリストに、佐伯桐花の名は、なかった。だが、モニター画面には、錦城が内密に、桐花に処方していた事実が映し出されている。
 次に切り替わった画面は、桐花の経歴だ。養子縁組の事実は、ない。十二歳までアメリカで暮らし、中学は甲神学園だ。錦城の息子と、同級生だった可能性がある。だが、中学三年生で、尼宝女子大の付属中学に編入していた。その後の高校、大学は、そのまま尼宝女子大に進学している。現在は、薬学部休学中だ。舞の推測は、おおむね、事実だった。
 喜多川が画面を切り替えると、「コーヒーを淹れてきます」と言って、立ち上がった。
 喜多川の配慮だ。舞は、体勢を変えず、モニター画面に集中した。視力の良さが幸いして、細かい文字まで読み取れた。
 画面には、二組のDNA鑑定の結果が映っていた。どちらも英語表記で、《トリオ鑑定》と呼ばれるものだ。この場合のトリオは、父母子を指す。画面の上段は《トリオ否定例》、下段は《トリオ肯定例》だった。
 舞は、何度も瞬きを繰り返した。今日の午後、荒垣が発した言葉の意味が、分かった。
 戸籍上は、養子縁組の事実はない。だが、トリオ否定例が事実なら、甲神学園の創設者一族の隠し子説も、事実となる。トリオ否定例は、父母の姓がSAEKI、桐花の戸籍上の両親だ。母親の名は、TOMOYOと確認できた。今日の午後、荒垣から聞いた《智代》と一致する。優子の義理の従姉で、間違いない。
 父親の名は、RYUSUKEとなっていた。舞は、白嶋酒造のホームページを思い返す。現社長の名は、佐伯隆介だ。
 続いて、下段のトリオ肯定例に視線を移した。画面の傍には寄れない。今度は、画面に釘付けになった。背筋が凍る思いだった。認めたくなかったが、優子への疑念が強まった。
 舞は、涙が出ないよう、ギュッと強く目を閉じた。
 喜多川が、コーヒーを運んで来る。舞の顔をチラリと見ると、画面を切り替えた。
「大丈夫ですか?」
 震えが伝わらないよう、腕に力を入れて、舞は喜多川から、紙コップを受け取った。
「以前、私の親しい人が、傷つくかもしれない、と仰っていましたよね。先ほどの画面の後者が、該当者なのですね?」
 立場上、喜多川が答えられない事実は、承知している。だが舞は、訊かずにはいられなかった。喜多川が、そっと周りを見回してから、口を開く。
「宇田川さんの、尊敬度合いによると思います。我々も、その線で調べていましたが、意外な事実も判明しました」
 舞は、切り替わった画面を見詰めた。次は、《デュオ肯定例》と呼ばれるDNA鑑定の結果だった。父子関係を指していた。父親は佐伯隆介だ。子の名前に視線を移す。再び、衝撃が走った。再度、しっかりと画面を凝視しようとした時だった。
 廊下から、足音が聞こえて来た。喜多川が、何食わぬ顔で、瞬時に画面を切り替える。これ以上の長居は、許されない。舞は、リュックを膝の上に置いた。残念そうな表情で、喜多川が舞の顔を見たが、すぐに真顔に戻る。喜多川が、出口まで見送ってくれた。
「マウンテン・バイクですよね?」
 舞は、苦笑いしながら、肩を竦めた。
「パンクしたので、歩いて来ました。実家に寄りますから。今日は、左方向に行きますね」
「いつの話ですか?」と、喜多川が顔を顰める。
「今朝の通勤時に、ガラス破片を轢いたようです。勤務先の駐輪場に置いてきました」
「朝の駐輪時には、気付かなかったのですね?」喜多川が、腕を組みながら、首を傾げた。
「帰宅時に気付きました。職員用の駐輪場は、今まで盗難被害も出てないし、悪戯ではないと思いますけどね」
「職員用の駐輪場は、一般の方は入れないですよね?」
「所在地を把握している人なら、入れるかもしれませんが。一般の方が入って来た例は、ないと思います。どうかされましたか?」
 喜多川が、腕をほどき、笑顔になった。
「何事も、疑うのが仕事ですから。ご実家まで、お送りしますよ」
「ここから歩いて十分ほどなので、大丈夫ですよ」
 舞も、笑顔を返す。喜多川に一礼すると、実家方面に歩を進めた。
 西宮警察署の隣のブロックまで歩くと、舞は、振り返った。喜多川が、まだ舞を見送っていた。喜多川は、何かを警戒しているように見えた。
 次のブロックまで歩を進めると、赤信号になった。信号を見詰めていると、例の「誰かに見られているような感覚」に陥った。舞は、脚に力を入れて、警戒体勢を整える。
 信号が青に変わった。
「やっぱり、宇田川さんだったのね」と、後ろから、女性の声が聴こえた。

(つづく)

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