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【第43回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉


第43回『ランビエの絞輪』第三章 ネクローシス10

 金曜日の午後、舞は、昼食を済ませると、九号館の解剖実習室へ向った。舞が解剖実習室に入ると、奥の実験室から荒垣の姿が見えた。実験台に、調査する溶液や実験器具を並べている。舞が実験台に近付くと、不快な臭いは、なかった。
 荒垣が舞の顔をチラリと見て、すぐに視線を実験台に戻した。
「錦城先生は、ブレイン・バンクの登録だったから。解剖が終わると、他の臓器は、速やかに返却したよ。各臓器からの内容物は実験用容器に入れて、冷凍保存してあるからね」
 荒垣が、確認するように、舞の眼を見詰めた。舞は、取り出された臓器類を目にする覚悟で、昼食の量を控えていた。そのため、やや拍子抜けした気分に陥った。
「今夜のお通夜に間に合わせたのですね」
「見たかったのか? 念のため、撮影してるから、後で画像を見たらいいよ。必要以上に保管しても、違反になるからね」
 舞は、頷くと、実験台に視線を移す。試験管や濾紙、検出試薬などが整然と並んでいた。荒垣の几帳面さが伺える。教育棟の荒垣の研究室は、雑然とした印象があった。だが、解剖の実践となると、様子が違ってくる。実験室の片隅には、荒垣用の事務机があった。
 事務机の上には、三本のペットボトルがあった。パッケージは甜茶となっている。
――荒垣先生は、甜茶を愛飲しているんだ!
 甜茶は、漢方茶の一種で、近年、人気が高まっている。大手飲料メーカーの安価なものなら、コンビニで購入できる。荒垣は、芦屋に本店のある高級スーパー《イスギ・スーパー》のオリジナル商品を愛飲していた。
「帰りに買ってみよう」と思いながら、舞は、実験モードに頭を切り替えた。
 日ごろの管理栄養士の職務では、ほとんど実験をする機会はない。
 舞は、荒垣の指示通り、定性分析を行った。錦城が月曜日の朝に食べていたと想定される、胃の内容物の溶液に取り掛かる。月曜日の八時半から九時の間に、錦城が氏鉄饅頭を食べていた事実は、角倉から聴いている。
 舞が持参した、氏鉄饅頭を少量だけ、胃液と同じpHの溶液に漬ける。一定時間を置いてから分析すると、錦城が朝方に食べていた内容物と一致した。
 学生のころは、自力で考察して、化学反応式をノートに書いていた。だが、実際の現場では、専用ソフトに結果を入力すると、簡単に化学反応式が作成された。
 錦城が昼食で食べていたステーキは、一㎝程度の肉塊のまま保存されていた。よく噛まずに食事をしていた証だ。事実、坂下の話では、錦城は早食いであった。
 溶液や濾紙での定性分析で、錦城が亡くなった日の食事内容は、おおむね把握できた。
 だが、二時間の限られた時間内では、確認できない事柄も多かった。他の業務もあるため、続きは、来週の月曜日に繰り越しだ。
 舞は、細心の注意を払い、使用済みの試験管を流し台に運んだ。実験後の後片付けは、思わぬ化学反応が起きるため、食器のように纏めて洗えない。
 荒垣が、壁時計を見ると口を開いた。
「後片付けは、インターンにやらせるから、もういいよ。記録した内容を、空いた時間に、栄養分析しておいてくれる? 実験内容については、優子先生や栄養部長に相談してくれても、いいから」
 舞は頷くと、「昨日の夕方の話ですけど」と声を落として、切り出した。
 だが、荒垣が手で制した。聞き取りにくい声で囁く。
「ここでは、実験以外の話は、するな」
 舞は、昨日の喜多川とのやり取りを、荒垣に報告したかった。
 舞の表情を察したのか、荒垣が小声で続ける。
「明日は、学内葬の前に、大学院の授業だろう?」
 舞が頷くと、荒垣は「お疲れさん」と退室を促した。
 舞は、九号館の裏手にある搬送用の出入口から出ると、路地を進んだ。葉紫陽花の植え込みが続く。
 芦屋医大構内のメイン通りに出ると、十号館の一階にあるコンビニに寄った。飲料売り場で足を止めると、甜茶を探した。大手飲料メーカーの商品が見つかった。パッケージには《甜茶》の文字の横に、小さく目立つ飾り文字で「バラ科の」と印字されていた。
 舞は甜茶を購入すると、九号館と十号館の間にあるベンチに腰掛けた。ペットボトルの甜茶を一口、味わってみた。無糖であるが、薬草の甘みが、口一杯に広がった。
 精密さを求められる実験の後だったので、咽喉が乾いていた。舞は、ペットボトルの半量を一気に飲んだ。飲みながら、ふと、荒垣の顔が浮かぶ。荒垣の意外な一面が、また一つ垣間見えたと思った。
 荒垣には、明朝、カフェ《ブリック》に行けば、会えるだろう。
 喜多川からは、勤務時間外は、院内用スマホの電源を切るようアドバイスされた。荒垣からも、解剖実習室内では、実験以外の話をするなと忠告された。
 二人とも、同じ内容を懸念しているように思えた。
 
 土曜日の朝、七時半、舞はカフェ《ブリック》の窓際席に座っていた。荒垣の姿は、まだ見えない。舞は、ソイ・ラテを飲みながら、病理学の専門書を読んでいた。時折、窓の外を見る。
 マスターがライ麦トーストを、運んで来ると、舞の顔を見て言った。
「お連れ様ですが、土曜日はいつも八時過ぎにお見えです」
 舞は、心の中を見透かされたようで、内心、驚いた。
マスターは、一礼すると、立ち去った。不愛想ながら、舞への心遣いだと思えた。
 舞はライ麦トーストを齧ると、咀嚼しながら、専門書に視線を落とした。荒垣が姿を現すのに、後二十分ほどある。二十分あれば、一限目の授業の予習範囲を一通り速読できる。
 舞は、切りのいいところで、書籍から顔を上げ、ライ麦トーストに手を伸ばした。手元のバランスが崩れ、専門書が床に落ちた。舞は、座ったまま右手を伸ばして、専門書を拾い上げる。膝の上に置くと、落ちた弾みで、折れたページが見つかった。
 折れたページを開くと、「病理解剖からみた糖尿病患者」の項だった。今日の一限目の授業の項ではない。だが、錦城の糖尿病説が疑わしいため、熟読した。
 小項目の最後のほうには、「死因および合併症」とあった。糖尿病の合併症で死に至る疾患は、心筋梗塞が一番多い。脳血管障害の例は、比較的少ないが、皆無ではない。脳梗塞は脳血管障害の一種となる。
 錦城の直接の死因は、脳梗塞だ。心因性の脳梗塞の可能性が高いため、糖尿病の影響で、心血管にダメージがあったと想定できる。解剖の結果、錦城は糖尿病であった確率が高い。
 錦城の健診結果の偽造の証拠は、見つかるだろうか? 舞は食い入るように、専門書を顔に近付けて読んでいた。何度も熟読していると、書籍からトントンと、震動が伝わった。
 舞が顔を上げると、荒垣が立っていて、「近視か?」と訊いてくる。
「いえ、面白い項目があったので、熟読していました」
「何を見入っていたのだ?」と荒垣が、専門書の開いたページに視線を移す。
「休みの日まで、仕事の研究か? 四六時中、考えていたら疲れるよ」
「一限目の予習のつもりが、別の項に目移りしたのです」
 舞は、愛想笑いを浮かべながら、荒垣の表情を伺った。
「例のものは、見つかりそうですか?」
 荒垣が、ウェット・ティッシュで手を拭きながら、首を横に振る。
「まだだ。休日に、パソコンを開けると、管理部に目を付けられるからべ。出勤申請を出したから、今日中に見つかるといいけど」
 マスターが、コーヒーとトーストを荒垣の前に置いた。
 舞は、マスターが、カウンター内の定位置に戻るのを見届けてから、口を開いた。
「木曜日の夕方の話ですけどね」
「今日は、急いでへんから、ゆっくり聞くで」と言う荒垣の表情が、いつもより明るい。
 舞は、声を落とし、喜多川からの忠告内容を伝えた。実家に寄った際に、父、勝司から聴いた西山町での噂話なども、話した。優子には、報告そしていない旨も、強調した。
 舞が話している間に、荒垣はトーストを食べ終え、コーヒー・カップを手にしている。
「あの人が、個人で動いてくれるとはなぁ」荒垣が、窓の外を見ながら、思案顔になる。
 あの人とは、西宮警察署の喜多川を指している。
「形になってきそうだね」と、荒垣はしみじみと言った。
 舞は、「糖尿病の考察ですけどね」と言うと、やや前のめりで、荒垣の顔を覗き込だ。
 荒垣が、そっと店内を見渡すと、口を開いた。
「分析の件は、一応、職務内容だ。月曜日に職場で話そうか。一限目の予習は、できているのか? 今はどの辺だ?」と言いながら、荒垣が舞の専門書を取り上げる。
「老化のメカニズムです」と、舞が告げると、荒垣がページを捲る。
「懐かしいなぁ」と、荒垣が笑みを零す。荒垣は、頼んでもいないのに、その章の要約を、簡潔に説明し出した。ページを捲りながら、試験に出そうな箇所も教えてくれた。
 荒垣は、マスターの視線を気にしているように思えた。心なしか、声が大きい。舞とは、師弟関係だと強調しているのか? 舞は、何故か心寂しい気分になった。
十五分ほどで、荒垣の説明が終わる。荒垣がコーヒー・カップに手を伸ばした。
「俺は、新聞を読んでから、出勤するよ」
舞は、予習の礼を述べると、舞は立ち上がった。カウンターでは、マスターが朝刊と、コーヒー・ポットを盆に載せていた。舞と目が合うと、マスターの口角が上がっていた。
 店を出ると、舞は、歩きながら、一限目の授業内容の予習を反芻した。先ほどの荒垣の説明で、理解度が深まりそうだ。

(つづく)

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