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【第52回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉


第52回『ランビエの絞輪』第三章 ネクローシス19

 水曜日の朝になった。舞が、カフェ《ブリック》の店内に入ると、前回と同様、壁側の席に喜多川が座っていた。喜多川が舞の顔を見て、微笑む。
「例の分析結果二点、こちらでも調べました。ある方からも、極秘データを預かりました」
 分析結果二点とは、錦城の胃の内容物と、荒垣の吐瀉物の解析結果だ。舞が喜多川に連絡したものだ。院内の就業規則も鑑みた。だが、事件性があった場合、警察に事実を隠すと、後で問題になると思えた。
 喜多川も勤務外で、錦城の他殺説を単独で調べている。極秘データは、錦城の真の健診結果だろうか。舞は、声を落として質問する。
「改竄の事実が判明したのですか?」
 喜多川が、首を横に振る。
「いえ、約二ヶ月前のデータです。唾液と毛髪のデータでした。糖尿病患者のものでした」
 舞は、眉根に皺を寄せる。錦城が糖尿病であった事実は、確定だ。
「インスリン注射が必要な者に、指示をしないのも罪ですよね?」
「ご本人が診察を受けていた事実がないので、難しいかもしれません。それと、お話が変わりますが」喜多川が言葉を切ると、舞の眼を真っすぐと見た。
「以前、例の被疑者の足取りを考察されていましたね。大変、参考になりました。本当に」
 喜多川は、最後の「本当に」を、強調した。喜多川の立場を考え、舞はそれ以上の質問を控えた。舞は、笑みを浮かべて、別の質問をした。
「今でも被害者を解剖した医師は、除外してもいいとお考えですか?」
 喜多川の視線が、一瞬、鋭くなった。
「何か、思い当たりましたか?」
 舞は、荒垣の父親と錦城の確執を、掻い摘んで話した。喜多川は背筋を伸ばし、黙って耳を傾けていた。続いて、優子の亡き夫と錦城の確執についても話した。
 喜多川が、時折り下を向いて、膝の上でプライベート用のスマホを見ている。舞の会話を録音しているのだろう。
「確かに、以前と状況は違いますね。ですが、想定内です」
 舞が話さなくとも、喜多川は両者の確執を把握していたと思えた。
 喜多川が、舞の眼を見て、「他に、お気付きの点はありませんか?」と言った。
 舞の脳裏には、芦屋医大の創設者一族の家族写真が浮かんでいる。
「夙川の事件とも、医局長の急逝とも、関係ないかもしれませんが」
 と舞が前置きをすると、喜多川の瞳孔が、大きくなる。舞は、声を潜めて、話し始めた。
「教育棟の最上階に展示室があります。大学の歴史や創設者の生い立ちも紹介されています。創設者の幼少期と、お孫さんだと思われる女児が、瓜二つだったのです。後者の写真は、家族写真で撮影時期は一九七三年でした」
 喜多川は、舞から視線を外すと、天井を見詰めた。何か計算しているようだ。
「宇田川さんの近辺に、該当者がいるのですね。もしかしたら、重要な発見かもしれません。それと、先ほどの質問ですが。やはり、解剖した方は、除外してもいいと思います」
 舞は、窓際席を見た。高齢男性の背中が、荒垣の姿と重なった。思わず、頬が緩んだが、すぐに顔を引き締めた。
「何が根拠か、お聞きしたいですが。お立場もあると思うので」
 と舞が言うと、喜多川が頷き、小声で囁いた。
「被疑者の件ですが、宇田川さんに幾つか、確認事項がございます。明日の夕方にでも、署の私の席までお越しいただけますか?」
「捜査を続行されるのですね?」
「被疑者の当日の足取りが分りましたので。上からも調査の続行命令が出ました。それに我々は、ノートPCを持ち歩けないのでね」
 舞は頷くと、口を開いた。
「最後にもう一つだけ。先日、図書館で調べ物をしていたら、例の『誰かに見られているような』視線を感じました。黒いタクシーは、関係ありませんでした」
「明日、お越しいただければ、何かヒントがわかるかもしれません」
 喜多川は、意味深な笑みを浮かべていた。
 
 栄養部のロッカー室に入ると、舞は、急いで白衣を羽織った。ナース・シューズに履き替えると、調理室に向かう。いつもより三十分ほど遅くなったが、入院患者の朝食後のトレイを確認したかった。ワゴン置場の小部屋に入ると、優子がいた。舞は、内心、驚いた。
 優子に気付かれないよう、そっと入口の陰から行動を見守った。患者の食べ残しではなく、薬の包装シートを確認しているようだ。見てはいけないものを見たと、舞は思った。だが、自身の研究の調査もあった。一旦、廊下に出ると、笑顔を作った。
「優子先生、珍しい場所でお会いしますね?」
 と声を掛けると、優子が、顔を上げて、舞を見る。落ち着いた表情だ。
「ここに来れば、舞さんが朝食の食べ残しチェックをしていると思ってね。今日は、いつもの時間より遅かったのかな?」
 優子は、舞の前でも、薬の包装シート収集を止めなかった。舞は、ビニール袋を凝視した。薬名は新薬の《モーニスコプラ》だった。
「私にご用でしたか?」と、舞は訊ねる。
 優子が、ビニール袋を掲げて、「薬も記録してたよね?」と、舞に確認してくる。
「十日ほど前から《ジキレプサ》だった患者さんの薬が、《モーニスコプラ》に変更になりましたね」と、舞は答えた。
「薬は専門外なのに、よく気付いたね。十日ほど前なら、錦城先生が亡くなる直前ね。錦城先生が指示したのでしょうね」
 舞は、愛用のノートを捲り、「前々週の金曜日からですね」と、報告した。
 優子は、満足そうな笑みを浮かべて、舞を見た。
「さすがだね。舞さんは、気丈なだけでなく、地道な努力も怠らないよね。まぁ理系の研究は、忍耐が付き物だけどね。そういえば、荒垣君の容態はどうなのかしらね?」
 探るような視線で、優子が舞を見ている。
「今日で三日目ですから、面会は可能になるかもしれませんね」
「きっと、彼女さんも来るのでしょうね」
 舞は、一瞬、心が沈んだ。院内の噂では、女気がない、と聞いていたが、荒垣に恋人がいたのか? 優子に悟られないよう、笑みを浮かべながら、首を傾げた。
「どうでしょう? どの病棟に入院されているのか、藤原先生にお聞きしていませんし」
「荒垣君の恋人は、公務員みたいね。まぁ噂だけど。仕事上でよく会うと、情も移るよね」
 舞は咄嗟に、西宮警察署の喜多川の顔が浮かんだ。喜多川が、荒垣を除外してもいいと話したのは、恋人を守るためなのか? 喜多川は、ある人物から、錦城の極秘データを預かっていた。二ヶ月前の糖尿病患者のデータだった。唾液と毛髪から解析した結果だった。ある人物は、荒垣だろう。
 荒垣は、データを入手しただけなのか? それとも、計画的に、自身で錦城の行動範囲を確認し、唾液や毛髪を採取したのか? 唾液は、食後の割り箸を回収すれば、容易に手に入る。錦城の毛髪も、研究室に行けば、床から拾える。事実、荒垣が、錦城の研究室から出てくる姿も、舞は、廊下の柱の陰から目撃していた。
 優子が、心配そうな視線で、舞を見ている。
「優子先生が噂話とは、珍しいですね」
「ただの噂なら、いいけど。仕事で関係がある人たちだし。耳に入れたほうがいいかな、と思ってね」
 優子は、噂話に興じるタイプではない。舞は、優子の発した、複数形の「人たち」が、気に懸かった。荒垣の恋人は、舞の知人である可能性が高い。
 今朝、喜多川と会ったばかりだ。明日の夕方には、西宮警察署に行く予定だ。荒垣の容疑は晴れた、と思っていた。だが、時期尚早だ。まだ調べる事柄も、残っている。
「今日の午後、いよいよ錦城先生の脳の解剖ですね。不謹慎な表現ですが、今から解剖結果が、楽しみですね」
 舞は、敢えて話題を変え、満面の笑みを、優子に向けた。
 優子が退室すると、急いでトレイの朝食の残り物をチェックした。優子から聞いた噂話が事実だとすれば、辻褄のあう事柄が出てくる。だが、黒いタクシーの謎、創設者一族の写真など、調べる事柄が、まだあった。舞は、自身の調査力を信じていた。

(つづく)

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マガジン「ミステリー小説『ランビエの絞輪』」に各話をまとめていきますので、更新をお楽しみに!

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