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ぬかるみ


ジャケットを羽織り店の外に出る。
暖簾を上げて見送る店員に、彼は笑顔で手を挙げる。
耳元に彼の顔が近づく。
「君の部屋で珈琲、飲みたいな」
「今日はもう帰る」
「そう、飲みたいのに」
雨上がりの生ぬるい風を頬に感じる。
彼の短い言葉の背景にたくさんの思いを感じる。<晩飯ごちそうしてやったのに、自分もそのつもりで来ただろうに、どいつもこいつもなんなんだよ>とでも思っているんだろう。誘ったのも、夕食の勘定を払うと言ったのもあなたではないか。
私から少し離れ、つぶやきが聞こえる。
「君の淹れる珈琲がどうしても恋しくなる時がある」
奥さんともうまくいってないんだろう。今日はひとりで帰ると決心して来たんだ。あなたの問題は私に関係ない。もう、嫌なんだ。
黙ったまま、ゆっくりと駅へ向かう。彼と出会ってもう1年になるだろうか。入社後数年たって入ったとあるプロジェクトのリーダーだった。
身体の右側に触れる体温と重みに押され、まっすぐ歩いているつもりが、だんだんと左に傾いてくる。
「なんでだよ」
顔を上げると彼と目が合う。
私は下半身から力が抜けた。
「美味しい珈琲はないわよ」
「飲めたらいいんだ。」
ぼんやりと彼を眺める。
こどものような笑顔をしている。でも、どこかしらひきつったようなものを感じる。私の部屋の様子を大急ぎで思い返す。あぁ、大丈夫だ、散らかっていない。よかったじゃない、彼がこんな嬉しそうなんだもん。いいじゃない、もう一回くらい。次は絶対に食事も行かないでおいたらいいんだから。これも勉強だったんだよ。それにさ、減るものじゃないし。
信号の向こうに見慣れたマンションが見えてくる。


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