今はもう亡き父と母①


多分、私が小学校に上がる時離婚して父が親権を持ち母が居なくなった。

私の記憶がツギハギなので、時系列でと書き始めて私が混乱。書き直してます。

うちはグリン🍀のケーキ←関西の1部の人しかわからないかも、を仕入れて卸す自営業だった。
月に1度神戸の菓子工場に仕入れに行き、県下の卸先に夫婦で配達していた。

月に1度の仕入れは家族で行きました。
キラキラした神戸の街。
甘い香りの菓子工場
優しい職人さん達
いつもくれるカットしたケーキの端っこ
いつもご飯は外国に来たみたいな大きなレストラン、ミュンヘン←多分今も有る
ファミリアでの買い物
楽しかった思い出です。

少し背が高くて目鼻立ちのはっきりして声の低い母を
幼い私は和田アキ子の様だと思っていました。

母の作るご飯は少し記憶していますがそれも少しだけ。
料理は上手な人だったのですが、少食の私達は大皿で出されたご飯を食べきれずよく2人で長々と食卓に座っていました。
今思えば、毎日の事じゃ無いから食べきれないほど出されてたのかも。

夜の寝かしつけの絵本はマザーグース
内容が意味不明??でした
本が好きな母だったので時々家族で銭湯に行き帰りにラーメン食べて近くの本屋さんにも寄りました。
いつものコースです。

家の近くに来々軒が出来て車椅子用みたいなスロープが有りそれが楽しくて仕方なかったなぁ。

赤い柱が入り口に2本立ってる中国人の方が経営してた本格中華料理店も近くに出来て、そこも好きでした。

姉は本も好きでしたが私が好きなのは服や可愛いものでした。

お正月に大阪に食べに行き大阪港からサンフラワーに乗って急遽、四国へという旅行も行きました。
始めは商用車でチェリーというバンだったのですが、キャラバンに格上げされ後部席を外して布団を敷き詰めて私と姉は後ろでゴロゴロ出来て、楽しかったし、普通の家族やと思っていました。私だけ。

時々水色のワーゲンで男の人が来ました。
可愛い車には似つかわない、はげでデブで小さいおじさんが乗っていました。父がハーゲンと呼んでいました。
随分経って、その人が母の浮気相手だったと気付き、ハーゲンに納得しました。

父は動物が大好きで犬、猫、鶏が我が家に居ました。

鳥をさばける父にある日母とハーゲンがキジを持ってきました。狩猟が趣味で岐阜などに行って取ってきたものらしく、父がさばき5人で家で食べました。
もちろん母も免許を持ち狩猟もしていた為、我が家の愛犬はいつしか猟犬のポインターでした。

ぼんやり生きていた4.5歳頃の私でもなんだか変だなぁと思って記憶しています。

という当時の記憶を姉や叔母(母の兄嫁)に話すと、その頃は少し出たら1週間程帰らないような母だったみたいで私達はほぼ叔母に見てもらっていた様です。
どおりで母の兄夫婦をお父さん、お母さんと呼んでいたのかとつい最近腑に落ちました。そこには4つ上の従兄弟の兄が居て、2つ上の姉と
いつも3人でした。

姉の記憶では、鴨を持ってきたのは夜遅くだったみたいです。

食べたかどうかも記憶にない位の私です。

家族に何かがあっても私だけ詳しく教えてもらわなかったのも、守る為だったと思うのですが、お陰で記憶が曖昧。
大げさに言うと家族の誰とも繋がりを感じません。
というかひとりアウェイな感覚のままです。

そんな事がこんな歳になって感じるなんて。
面白いなぁ、思います。

父は自治会の子供クラブの会長を買って出るほど子供が好きで、ヤキモチを焼くほど近所の子供に人気者でした。

そんな父も姉には、愚痴ることもあったようです。
今思えば、羨ましい。

離婚後は自営業で残したお金で近くに新築の家を父は購入し1階でスーパーを始めました。
やもめで新事業は相当、大変かと。
遠足の日にはお弁当も作ってくれました。
サイズがマチマチのおにぎりは詰めると隙間が出来ていました。
嫌だと思うことは有りませんでした。
外階段で2階が住居でした。
時々、寝室の掃き出しのガラスの外に母が立っていました。突然来る母、私はただただ嬉しくて。複雑な気持ちなど知る由もなく。
そんな日はとりあえず皆で鍋を囲みました。

父子家庭で母の日が来ると、今なら考えられませんが、白いカーネーションをお父さんに渡してねと学校でもらいました。
1年生、通学路を覚えられず覚える気も無く、姉の終わりを待ち帰ったり、学校の近くの幼なじみの家で姉を待ったり、下半身パジャマで学校に行き途中で気付いて帰ったり、近くの高校の自転車の群れに巻き込まれ引かれたり、相当なおバカさんでまるでリアルまるちゃんだった私はなんとも思いませんでした。
へ〜、白いカーネーションあげるんだ〜って思ってました。

当時は土曜は昼まで学校だったのですが、午後は母との日という事になっていて、学校帰りに母が車で待っていて姉と3人で市民図書館に行きました。
その後は喫茶店に行きます。
私はいつもホットケーキとミルクティー。優雅な私の楽しみでした。
家にいつも居てる母親では無いけれど、皆みたいに遊びに行ってもお母さんがいる訳じゃないけど、何となく寂しくないように私が、いつものんきに生きれるようにしてくれたと思います。

ほんとに嫌な事は無かったんです。父の事も大好きでしたから。

そんな父も疲れてきたのか、私が小4の時お見合いをすることになりました。

いきさつはよくわからないのですが、お揃いの服を着て知らないおばさんとレストランで会いました。
その後おばさんの家に行きおじいさん、おばあさん
弟さんとも会いました。皆、水木しげるさんの漫画に出てくる人達に見えました。

ただお家はとっても大きな古民家で裏に蔵も有りました。

花の子ルンルンな世代の私は怖くて早く帰りたかったです。祖父母の家にも泊まれない私でしたから、何回目かにそのおばさん宅に再訪した際に姉夫婦が同年代の子供を連れて来ていて、うちの姉はホイホイその姉のお宅に泊まりに行きましたが、未だに理解不能です。
そんな事したら二度と帰って来れないよ位に怯えてた私は相当バカで可愛かったかと思います。

実際は夏休みのほぼひと月姉は帰ってきませんでした。

それからしばらくした有る夜そのおばさんがやって来ました。

それから帰らなくなりました。

結婚が決まってしまい、大きなベッドが2つ子供部屋に届きました。

私は正式に水木しげる一家の孫になりました。
これは耐え難い事でした。

我が家の和室で簡単なお式もしました。

しばらくしてスーパーを閉めて家も売り引っ越す事になりました。

引っ越して間もなく弟が産まれました。

末っ子だった私は弟が可愛くて仕方なく、9歳下だったので、学校から帰ると近くの駄菓子屋に連れていき、虫歯を作ってしまい継母に嫌な顔をされました。

姉は継母にこころを開かず、転校先でいじめられ、引きこもるようになりました。
その頃から姉は新聞配達を始めていました。

継母もバツイチだったらしく
暮らしてみてわかりましたが、炊事洗濯等が出来ない人だったのです。
スーパーへ父が着いていき、指示して買い物を終わらせ家で父がほぼ作っていたように思います。洗濯物は干せてもたためないので山積みになった服の山から掘り出すという、驚きの生態が離婚の原因だったみたいです。

父が死ぬ前、入院先に行くと2人になれるのが嬉しくて、何度も何度も病院に通い、デートしてこいと心配されるほどでした。わしもよう耐えたわって言うてました。

本当に亡くなる時は私達はもう家族では無いため知らせは無く、亡くなってから行きました。

医師が解剖をと希望していたのを弟達は拒絶していました。私はしてもらいなさいと伝えて帰りました。

父は家で葬儀になりパニックな継母に代わり父の弟が葬儀を仕切ってくれました。父の斎場へ行っている間水木しげる弟が留守番をしている時に私の当時の勤め先の社長が来てくれました。血は繋がってないんです。と言い訳したいくらいでした。←悪い事言うた。
写真と老眼鏡をもらって帰りました。

父の弟は幼い頃の私を養子に欲しいと望んでいたと聞いていました。多分、弟の現在の奥さんを見る限り、母のことが好きだったのだと思います。昔の母によく似てる。

そんな父の弟に数日後ホテルに連れ込まれる事態に。
なんだかええもん買ったげると呼び出され要らんとお茶して送ってもらう時にサラッとホテルへドライブイン。拒否って帰ってきたけど情けない気持ちになりました。

6年になる頃弟がもう1人産まれることになり、父は親権を母に渡しました。

中一になると同時に母と彼氏(ハーゲン)との暮らしになりました。転校はせずに済みましたが姉は多感な中3という不運。

ほとんど人には話したことの無いことばかりです。

ぼんやりリアルまるちゃんの私でも人が引くのは音まで聞こえます。

どう言えばいいの❓って顔も見ればわかる

父も母も亡き今となったら、私の中で過去を冒険している気分でツギハギしてる感覚です。

私にはとても出来ないことを父も母も姉も体験させてくれました。

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