「遊歩者」『パサージュ論』要約と考察
1,「遊歩者」とは
まず、ヴァルター・ベンヤミン(1892―1940)が言うところの「遊歩者」(flaneur)には次の三つの性格がみられる。[1]
i) 遊歩者は群衆に紛れるが、一方で群衆の一人ではない。そうして集団とは一段違う立場から批判的な視線を周囲に向け、思考に耽る。
ii) 遊歩者は自在に群衆の中に溶け込み、都市の中に自由に入り込むことが出来る。
iii) 遊歩者は街中のあらゆる事象を観察し、解釈し、その断片的な情報を意味のある関連として再構築していく。
これら一つ一つを「遊歩者」本文と照らして解し、関連する断章を引用しつつ、その性格をみていこう。
i)
以上の引用からは、まさに群衆の中にあって群衆ではない、批判的な視線を周囲に投げかける姿が見て取れる。
ii)
これらの引用には、探偵めいた姿、隠れつつも神経をとがらせている姿が現れている。
iii)
ここでは、様々な事物に敏感に反応し、独特の、そして彼独自の類似性をそれらに見出す姿が立ち現れている。
2,遊歩者を生んだ「パリ」と、彼の「陶酔」
前章にて、三点を遊歩者の性格として挙げたが、これだけでは彼を解するに当たって不十分である。遊歩者の存在を大きく支える「パリ」という街、また彼の重要な側面としての「陶酔」。ここではこの二点について、前章と同じく引用をもとに解釈していく。
i) パリという都市
つまり、関心をよせすぎる事物が多いローマではなく、あくまで細々とした生活、商店の品物、ひいては人間を観察対象とする遊歩者にとって、人々の生活が作り上げた都市であるパリは格好の街なのだ。というより、そうした性格の街が遊歩者を生んだのである。また、ベンヤミンは次のようにも述べる。
換言すれば、筆者が考えるに、パリの群衆の穏やかさ、遊歩を可能にする雰囲気とは、他者を慮る「キリスト教的友愛」によって成り立っているものではなく、群衆は個々の事情に、遊歩者自身は夢の中に沈み込むことによって生まれる他者へのある種の無頓着さが生み出しているものなのではないだろうか。少なくとも、ベンヤミンはそう考えていたと思われる。
ii) 陶酔
これに関しては前章で述べたiii.の性格に大きく関連する。適宜そちらの引用文も参照して頂きたい。さらに重要と思われる断章を引用する。
3.考察
以上、ベンヤミンがいうところの遊歩者について引用を多用しつつも概観してきた。彼は群衆の中にあって群衆ではなく、研究者・観察者であり、またそれに陶酔する者であるといえる。ここでは遊歩者についてまとめつつ、細やかな筆者の考えを付け加えていきたい。
まず、前章までで見てきた概観から導き出されるイメージは、有閑の男性である。『群衆の人』において、ポーはこう記述している。
生活にのみ生きざるを得ない人々が遊歩を成し得ないのは当然として、またさらに、女性が街路において遊歩することは可能だろうか。筆者の経験的なものからくる偏見であるともいえるかもしれないが、この疑問が頭をかすめる。遊歩者において人々は見る対象だが、人々にとって(男性にとって)女性も見る対象なのではないだろうか。当時のパリ市民について、また様々な階級の女性の実態について筆者は明るくないので、疑問にとどまった細やかな事項だが、脳裏の片隅に居座るこの疑問をここに記しておく。またこの疑問を日本の近代において考えれば、さらに「女性の遊歩者」というものは想像し難くなる。樋口一葉(1872―1896)は「見られる者」であった女性から「見る者」としての女性として作品を残したが、『たけくらべ』(1895-1896)では人々から向けられる大人に近づいた女性への視線、そこで受ける恥辱を描いていた。「遊歩」について自身と繋げて考えてしまったとき、筆者の胸からはあの少女の心持が離れないのである。
また、ベンヤミンが他の断章で触れている引用文において、都市の発展と共に安全に「遊歩」出来なくなっている現状を嘆く一節がある。単純に、行き交う馬車が増えれば(また現代のように車が走るようになれば)、ぼうっと思案しながら歩ける場所は限られてくることは容易に推察できるのだ。となれば、パサージュという空間がもたらした特異性のある行為ともいえそうである。
さらに付け加えると、観察者と陶酔者は一見相反する存在に思える。確固とした自己を保持し批判的な視線を周囲に向ける観察者。自我が解かれ世界と融解するような感覚を味わう陶酔者。今の筆者には、これを遊歩者とは両義的な存在なのだと解することでしか結論づけられない。だが、ベンヤミンが繰り返し「陶酔」の重要性をこの断章群で述べている以上、その体験は遊歩者の性格から無視してはいけない肝要なものであると考える。そこで筆者はこう解する。遊歩とは実は、迷子と似通った体験なのではないだろうか。周囲の細やかな事物が生々しく迫り、迷子はその迫力に圧倒され恐怖し、また強く惹かれる。観察するというより、観察してしまうのである。そうしてそれに没頭するのだ。子供の時分に感じていた、今よりももっと謎めく世界、迷宮と化す町の恐ろしさと胸骨を打つ拍動をもたらす興奮……筆者は遊歩に「迷うこと」という能力を見出すのである。ベンヤミンがいう遊歩には、この能力(技術と換言しても良い)が必要であると思われる。ネガティブな文脈で用いられがちな「迷う」という行為だが、これを積極的に行おうとするには、ある種の技術が必要だろう。まるで素面のままハシッシュに酔うように。
以上をまとめると、遊歩者とは単純な存在・行為に見えて、実は様々な条件が絡み合い可能となるものといえる。都市が生み出した一方で、現代の都会で実行することは難しい。また簡単に行えるものでもなく、ある種の修練が必要なのではないだろうか。ベンヤミンが言及するところの都市の中の遊歩者とは、移り変わる時代の中で一時瞬いた存在なのかもしれない。
[1] なお、ここであげる三つの性格については近森高明著『ベンヤミンの迷宮都市 : 都市のモダニティと陶酔経験』(世界思想社、2007)を多分に参考にしたことをここに注しておく。
[2] フリードリヒ・シラー(1759―1805)『Der Spaziergang』=『逍遥』(1795)
[3] マリファナのこと。ハシシュ。ハッシッシ。ハシシ。(デジタル大辞泉)
[4] エドガー・アラン・ポー/中野好夫 訳「群衆の人」『ポオ小説全集2』p.384