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古事記百景 その三十五

塩盈珠と塩乾珠

於是火遠理命ココニホヲリノミコト
思其初事而ソノハジメノコトヲオモホシテ
大一歎オホキナルナゲキヒトツシタマヒキ
故豊玉毘売命カレトヨタマビメノミコト
聞其歎以ソノミナゲキヲキカシテ
白其父言ソノチチニマヲシタマハク
三年雖住ミトセスミタマヘドモ
恒無歎ツネハナゲカスコトモナカリシニ
今夜為大一歎コヨヒオホキナルナゲキヒトツシタマヒツルハ
若有何由故モシナニノユエアルカトマヲシタマヘバ
其父大神ソノチチオホカミ
問其聟夫曰ソノミムコノキミニトヒマツラク
今旦聞我女之語云ケサアガムスメノカタルヲキケバ
三年雖坐ミトセマシマセドモ
恒無歎ツネハナゲカスコトモナカリシニ
今夜為大歎コヨヒオホキナルナゲキシタマヒツトマヲセリ
若有由哉モシユエアリヤ
亦到此間之由奈何マタココニキマセルユエハイカニゾトトヒマツリキ
爾語其大神カレソノオホカミニ
備如其兄ツブサニソノイロセノ罸失鉤之状ウセニシツリバリヲハタレルサマヲカタリタマヒキ
是以海神ココヲモテワタノカミ
悉召集海之大小魚問曰コトゴトニハタノヒロモノハタノサモノヲヨビアツメテ
若有取此鉤魚乎モシコノツリバリヲトレルウヲアリヤトトヒタマフ
故諸魚白之カレモロモロノウヲドモマヲサク
頃者赤海鯽魚コノゴロタヒナモ
於喉鯁ノミドニノギアリテ
物不得食愁言故モノエクハズトウレヘナレバ
必是取カナラズコレトリツラムトマヲシキ

於是探赤海鯽魚之喉者ココニタヒノノドヲサグリシカバ
有鉤ツリバリアリ
即取出而スナハチトリイデテ
清洗スマシテ
奉火遠理命之時ホヲリノミコトニタテマツルトキニ
其綿津見大神ソノワタツミノオホカミ
誨曰之ヲシヘマツリケラク
以此鉤コノハリヲ
給其兄時ソノイロセニタマハムトキニ
言状者ノリタマハムサマハ
此鉤者コノハリハ
淤煩鉤オバチ
須須鉤ススチ
貧鉤マヂチ
宇流鉤云而ウルチトイヒテ
於後手賜シリヘデニタマヘ。…於煩及須須亦宇流六字以音…
然而其兄シカシテソノイロセ
作高田者アゲタヲツクラバ
汝命ナガミコトハ
営下田クボタヲツクリタマヘ
其兄作下田者ソノイロセクボタヲツクラバ
汝命ナガミコトハ
営高田アゲタヲツクリタマヘ
為然者シカシタマハバ
吾掌水故アレミヅヲシレバ
三年之間ミトセノアヒダ
必其兄カナラズソノイロセ
貧窮マヅシクナリナム
若恨怨其為然之事而モシソレシカシタマフコトヲウラミテ
攻戦者セメナバ
出塩盈珠而シホミツタマヲイダシテ
オボラシ
若其愁請者モシソレウレヒマヲサバ
出塩乾珠而活シホヒルタマヲイダシテイカシ
如此令惚苦云カクシテタシナメタマヘトマヲシテ
授塩盈珠塩乾珠并両箇シホミツタマシホヒルタマアハセテフタツヲサヅケマツリテ

即悉召集和邇魚スナハチコトゴトニワニドモヲヨビアツメテ
問曰トヒタマハク
今天津日高之御子イマアマツヒダカノミコ
虚空津日高ソラツヒダカ
為将出幸上国ウハツクニニイデマサムトス
誰者幾日送奉而覆奏タレハイクカニオクリマツリテカヘリコトマヲサムトトヒタマヒキ
故各カレオノモオノモ
隨己身之尋長ミノナガサノマニマニ
限日而白之中ヒヲカギリテマヲスナカニ
一尋和邇白ヒトヒロワニ
僕者ワレハ
一日送ヒトヒニオクリマツリテ
即還來カヘリキナムトマヲス
故爾告其一尋和邇カレソノヒトヒロワニニ
然者汝送奉シカラバナオクリマツリテ
若渡海中時モシワタナカヲワタルトキ
無令惶畏ナカシコマセマツリソトノリテ
即載其和邇之頸スナハチソノワニノクビニノセマツリテ
送出オクリダシマツリキ
故如期カレイヒシガゴト
一日之内ヒトヒノウチニ
送奉也オクリマツリキ
其和邇将返之時ソノワニカヘリナムトセシトキニ
解所佩之紐小刀ミハカセルヒモガタナヲトカシテ
著其頸而返ソノクビニツケテカヘシタマヒケル
故其一尋和邇者カレソノヒトヒロワニヲバ
於今謂佐比持神也イマニサヒモチノカミトゾイフナル

是以備如海神之教言ココヲモテツブサニワタノカミノヲシヘシコトノゴトクシテ
興其鉤カノツリバリヲアタヘタマヒキ
故自爾以後カレソレヨリノチ
稍兪貧イヨイヨマヅシクナリテ
更起荒心サラニアラキココロヲオコシテ
迫來セメク
将攻之時セメムトスルトキハ
出塩盈珠而令溺シホミツタマヲイダシテオボラシ
其愁請者ソレウレヒマヲセバ
出塩乾珠而救シホヒルタマヲイダシテスクヒ
如此令惚苦之時カクシテタシナメタマフトキニ
稽首白ノミマヲサク
僕者自今以後アハイマヨリユクサキ
為汝命之晝夜ナガミコトノヨルヒルノマモリビト守護人而仕奉トナリテゾツカヘマツラムトマヲシキ
故至今カレイマニイタルマデ
其溺時之種種之態ソノオボレシトキノクサグサノワザ
不絶仕奉也タヘズツカエマツルナリ


ある日、火袁理命ホヲリノミコトは何故ここに来たのか、そもそもの目的を思い出されて大きな溜息をなさいました。

その溜息をお聞きになった豊玉毘売命トヨタマビメノミコトは父の海神に、

『三年もお住まいになって、今まで一度もお嘆きになることはございませんでしたのに、今夜は大きな溜息をなさいました。何か理由がお有りなのでしょうか』

と仰いました。

そこで父の大神は婿に質問し、

『今朝、娘が言うには、三年もお住まいになって、今まで一度もお嘆きになることはなかったのに、今夜は大きな溜息をされたけれど、何か理由が有るのかと、また、ここに来た本当の理由はなんですかと心配しています』

と尋ねます。

すると火袁理命ホヲリノミコトは兄から借りた鉤り針を失くしてしまい、それを返せと言われていることを事細かにお話しになりました。

海神は海の魚を大小となくことごとく集め、

『もしや、この鉤り針を取った魚はいるか』

とお尋ねになりました。

すると多くの魚たちは、

『近頃、鯛が喉に骨が刺さって物が食えないと言っております。きっとこの鯛が鉤り針を取ったのでしょう』

と申しました。

そこで鯛の喉を探ると、確かに鉤り針がありました。

すぐに取り出し、きれいに洗い、火遠理命ホヲリノミコトにお返しになる時に綿津見大神ワタツミノオオカミが次のように教えるのです。

『この鉤り針をお兄さまにお返しになる時は、この鉤り針は游煩鉤おぼち須ゝ鉤すすち貧鉤まぢち宇流鉤うるちと言って後手しりへでで返しなさい。そしてお兄さまが高い所に田を造ったら、あなたは低い所に田を造りなさい。お兄さまが低い所に田を造ったら、あなたは高い所に田を造りなさい。そうすれば私は水を支配していますから、三年の間にきっとお兄さまは貧しくなるでしょう。もしそのことを恨んで兄が攻めてくれば、塩盈珠しおみつたまを出して溺れさせ、もしお兄さまが助けを求めるのなら塩乾珠しおひるたまを出して生かしなさい。そして悩み苦しめるのです』

こう仰ると塩盈珠しおみつたま塩乾珠しおひるたまの両方を授け、すぐに和邇わにをことごとく集め、お尋ねになりました。

『今、天津日高あまつひこ御子みこ虚空津日高ソラツヒコうわくににおいでになろうとしているのだが、誰か送り届けて戻ってくるまでに幾日を要するか答えられる者はいるか』

各々が自身の身体の大きさに合わせて日数を申し上げるのですが、一尋和邇ひとひろわには、

『私であれば一日で送り届け帰ってくることができます』

と言いました。

そこで一尋和邇ひとひろわにに、

『それではお前がお送りしなさい。海中を渡る時は怖がらせてはなりませんよ』

と仰り、すぐに和邇の背に火袁理命ホヲリノミコトを載せ送り出しました。

そして一尋和邇ひとひろわには約束の通り一日で送り届けるのでした。

その和邇わにが帰ろうとする時、火袁理命ホヲリノミコトは腰に佩いていた紐の付いた小刀を解き、一尋和邇ひとひろわにの首につけてお返しになりました。

ですからその一尋和邇ひとひろわにを今でも佐比持神サヒモチノカミと言います。

そして海神の教えに従いその鉤り針をお兄さまにお返しになりました。

その後お兄さまはいよいよ貧しくなり、さらには荒い心を起こして攻めてくるのです。

攻めて来ようとする時は、塩盈珠しおみつたまを出して溺れさせ、兄が憂えて許しを請うと塩乾珠しおひるたまを出して救い、このように悩ませ苦しめていると、

『私は今から、あなた様の昼夜の守護人してお仕え申し上げましょう』

と申し上げました。

そのことが起こってから今に至るまで、火袁理命ホヲリノミコトの子孫の隼人は、その溺れた時の様子を絶えることなく子孫へと伝え、お仕え申し上げているのです。


※游煩鉤とは憂鬱になる釣り針のことです。
※須ゝ鉤とは怒り易くなる釣り針のことです。
※貧鉤とは貧しくなる釣り針のことです。
※宇流鉤とは愚かになる釣り針のことです。
※後手とは手を後ろに回すことですが、呪術的なことのようで、よく分かり
 ません。
※塩盈珠とは海を満潮にできる呪力を持つ玉のことのようです。
※塩乾珠とは海を干潮にできる呪力を持つ玉のことのようです。
※上つ国とは海中から見ての上、つまり地上の国のことで葦原中国のことで
 す。
※一尋和邇とは両手を左右に広げた大きさのサメということです。
※和邇はサメのことですとお伝えしていますが、江戸から明治に掛けて活躍
 された小林永濯(こばやしえいたく)という日本画家は、鮮斎永濯画譜の
 中に、どう見てもサメではなくワニに乗った火袁理命画を描かれていま
 す。
※昼夜の守護人とは護衛のような役割の者という意味でしょう。


「太安万侶です。今回のゲストは兄弟喧嘩の勝者、火袁理命です。まずはおめでとうございますでいいのですよね?」

「兄弟喧嘩の末だから、めでたいのかなあ」

「これで一応はあなたの天下じゃないですか」

「まあそうなんだけどね」

「今回は呪術と言いますか魔術と言いますかが、何度も出てきましたが、実際にお使いになった感想はどうです?」

「後手の効果はよく分からないよ。それから塩盈珠と塩乾珠もそれなりに使えるんだけど、すぐに満潮になったり、すぐに干潮になったりする訳じゃないから、じわじわと痛めつけるみたいで、ちょっと気が引けるんだよね」

「なるほど、呪術の効果は余りなかったと」

「そんなこと言ったら義父が傷付くだろうから言わないけどね」

「お義父さん思いですね」

「色々とアドバイスもくれたし、アイテムもくれたし、配下の者たちに命じてくれたりしてるからね。ずいぶんお世話になってるし、それに何より妻の父だから」

「なるほど、どんな出来事よりも親愛の情という訳ですか」

「そういうことになるのかな」

「親愛の情と言えば、二番目にお生まれになった火須勢理命はどうされているのでしょう?」

「そんな兄もいたね。全然会ってないから分からないけど、何なら兄に聞いてみようか?」

「こちらにいらしてるんですか?」

「私の守護人だから当然でしょ、おーい、二番目の兄貴の消息知ってる?」

「私も存じませんね。弟とは生まれて間もない頃から会ってないですから。元気にしてるといいんですけどね」

「母が炎の中で産んだという記憶しかないなあ」

「その通りなんです。二番目のお兄さんの火須勢理命は古事記だけに登場されますし、生まれたシーンだけで他には登場されないんですよ」

「安万侶に聞くのもどうかと思うけど、日本書紀には出てこないの?」

「まったく同じ名前では登場すらありませんね。似た名前では登場されますが、それすらも生まれたというだけの記述です」

「いるかいないかも分からないってことかな?」

「実際にはいらっしゃるのでしょうが、どこで何をして暮らしておられるのか。ただ、九州に多いですが、祀られている神社はいくつもあります。一説によりますと、あなたに殺されたという話もあるようです」

「一時は海と山をそれぞれが支配していた兄弟と、まったくそんなことには関知せずに行方知れずの兄弟がいる訳だ。そして末っ子が天下を取ったということか。なんか皮肉だね」

「今まで様々な兄弟喧嘩を見てきましたし、古事記の中にも兄弟喧嘩のエピソードは多くあります。ですがすべて下の子が勝っているんですよね。何かそんな不文律のようなものがあるんですかね」

「そんなものがあるのなら、先に教えて欲しかったよ」


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   古事記百景 その三     古事記百景 その四
   古事記百景 その五     古事記百景 その六
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   古事記百景 その三十三   古事記百景 その三十四


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