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京の寺社巡り4
今回は首途八幡宮です。
首途八幡宮。
場所は今出川智恵光院を上がった西側にあります。
以前は広大な敷地を有していたそうですが、応仁の乱や天明の大火で社殿などを焼失し、現在は間口が狭く奥に長い、まるで鰻の寝床のような神社です。
京都らしいといえばそうですね。
ですが、現在の社は地元の方々により再興されたもののようです。
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今ではあまり使われることがないようですが、「首途」という文字はどんなイメージを持たれますか?
「かどで」とは別に「しゅと」とも読むようですが、首という字があるせいか、なんかちょっとヤバいんじゃないの? というのが私のイメージでした。
意味は「門出」とまったく同じで、出立とか旅立ち。
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祭神は宇佐神宮から勧請された
誉田別尊(応神天皇)
比咩大神
息長帯姫命(神功皇后)
が祀られています。
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元の名は内野八幡宮。大内裏の北東に位置するため王城鎮護の社だったそうです。
境内には弁財天も祀られています。
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鞍馬の山中で修業に明け暮れていた牛若丸(遮那王)が、奥州で産出される金を用いて幅広く商売を手掛けていた金売橘次の勧めで、平泉文化華やかなりし頃の奥州藤原氏の下へ向かう前に、旅の無事を祈願しここから旅へ出立したとされています。
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この史実から「首途八幡宮」と呼ばれるようになったとか。
今でも旅行の安全を祈願して訪れる方が大勢いらっしゃるようです。
元は橘次の屋敷跡だったという話もあります。
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牛若丸はこの旅の途中で、源九郎義経と名を改めます。
無事到着した平泉で武芸に励みますが、兄頼朝の平家打倒に追随すべくわずかな供を連れ頼朝の下へ駆けつけます。
頼朝にしてみれば一大勢力を誇っていた平泉藤原氏が加勢してくれたと喜ぶのですが、僅かの供回りの弟を見聞きし落胆を隠さなかったといわれています。
源氏と平家の戦いにおいては、義経の鞍馬の山中や平泉での鍛錬が功を奏し、次々と平氏を追いやり、遂には壇ノ浦の戦いで平家は滅亡してしまいます。
平家を滅亡に追い込んだ義経を、天皇を始め朝廷は概ね義経に好意的でしたが、兄頼朝は鎌倉幕府のトップであり、その側近の諫言もあり義経に辛く当たります。
結局義経は兄から逃れ平泉を頼ってしまうのですが、このために奥州平泉文化は終わりを迎えることになります。
首途八幡宮から奥州に向かった義経は、平泉の地で生涯を閉じます。
一説には大陸へ渡りチンギスハンになったともいわれています。
三羽 烏