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をかし探究隊 お初天神を行く

 ずいぶん前になるが私の好きな noter のお一人、カンナさまが『をかし探究隊』を設立され、隊員募集されているのを見つけた。
 コメ欄に「隊員は何をするのですか?」と聞くと、特にすることはないらしいのだが、副隊長に任命された。
 もちろん隊長はカンナさまだ。


 今回は、近松門左衛門作『曽根崎心中』で有名なお初天神を訪れたので、記事として残すこととする。
 ただし、隊長の許可を得ていないので、叱られるかもしれないという恐怖を抱きつつ話を進めることになる。(のちに隊長から許可をいただいた)

 まずは簡単に近松門左衛門から。

|近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》(1653-1725)
江戸時代前期から中期にかけての人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。

えっこれだけ? 簡単過ぎるやろ!!

さてお初天神の話をしよう。
 大阪は梅田のすぐ横、曽根崎の地にあるこの神社、正式には露天神社つゆのてんじんしゃという。くれぐれもろてん・・・じんじゃとは読まないように。
 ビル群に囲まれポツンと存在する神社は、梅田と難波を結ぶ大阪の大動脈御堂筋のすぐ側にある。

中央が露天神社。左側に太く斜めに走る道路が御堂筋。(google map)


露天神社 (お初天神)

御祭神:少彦名大神、大己貴大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真公


由 緒:創建以来1300年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。
社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が嘉祥三年 (850年) にまで遡ることができ、六世紀の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。
なお、承徳元年 (1097年) に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。

露天神社由緒略記より

社名の起こり:菅公が当地で詠まれた御歌「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。昌泰四年 (901年) 二月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社の東側に伽藍を構える「大融寺」にご参詣の道すがら、当地でこの歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露天神社と称すると伝えられている。 (「摂津名所図会」による)また、入梅の時期に祭礼をすることから「梅雨天神」と称すると伝えられている。 (「摂陽群談」)他にも、梅雨時期になると清水が湧き溢れる井戸が境内に存することによるとも伝えられている。 (浪速七名井「神泉。露の井戸」)

露天神社由緒略記より

 曽根崎心中の話をするには、基礎知識を含めて浄瑠璃の話もしておかなければならないだろう。

浄瑠璃とは、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章を語る音曲・劇場音楽。
詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さがある。
単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる。

人形浄瑠璃は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。
大正期以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、文楽人形浄瑠璃のように用いられる場合がある。

文楽とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し、大阪を本拠地とする人形浄瑠璃の系譜をいう。

1955年、文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定され、現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場と東京の国立小劇場を中心に公演を行っている。

1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形浄瑠璃の興行を始めたのが事の起こり。
隆盛の時代には複数の興行元があったが、大正期には「文楽座」のみとなったため、現在では「文楽」の名称が、すべての人形浄瑠璃の代名詞として使われることが少なくない。

wikipediaより抜粋

さていよいよ『曽根崎心中』の話をしよう。


近松門左衛門作『曽根崎心中』より

誰が告ぐるとは 曽根崎の森の下風音に聞え。
取伝へ貴賤群集の回向の種。
未来成仏疑ひなき恋の。 手本となりにけり。 


『曽根崎心中』は、世話物浄瑠璃の一段。近松門左衛門作。
元禄十六年 (1703年) 竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。
のちに歌舞伎の演目にもなる。
相愛のお初と徳兵衛が命がけで恋を全うした若い男女の心中の物語である。


『曽根崎心中』は、元禄十六年四月七日 (1703年5月22日) 早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ (本名妙、21歳) 」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛 (25歳) 」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社はお初天神とも呼ばれるようになった。


事件から一月後の同年五月七日 (6月20日) の道頓堀にある竹本座で人形浄瑠璃『曽根崎心中』の初演が行われた。(⇦早!! 一月ですべて準備ってスゲエ)

この作品をキッカケに心中ものが流行した結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、江戸幕府は享保八年 (1723年) より上演や脚本の執筆や発行を禁止すると共に、心中者の一方が生存した場合は極刑を申し渡し、双方生存の場合は晒し者にしたのち市民権を奪い、心中死した遺体は親族に下げ渡さず一切の葬儀を禁ずるなど心中事件に対して苛烈な処置を行った。


恋仲であったお初と徳兵衛。だが徳兵衛に結婚話が持ち上がる。
お初がいるからと断るのだが、親戚が勝手に話を進めてしまい、さらに結婚相手の親から結納金を親が受け取ってしまい、話が合意できないのであればと相手の親から結納金の返還を求められる。 (当然やな)

徳兵衛はやっとのことで親から結納金を取り返したものの、その金を友人に貸してしまった。 (なにやってんねん)

友人に返済を求めるも借りた覚えはないと公衆の面前で罵倒し面目を失わせる。 (証文があるのにとぼける友人もスゲエな)

進退窮まった徳兵衛はお初に死ぬ覚悟を伝える。

やがて真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、曽根崎の露天神の森へと歩を進める。

互いを連理の松の木に縛り、覚悟を確かめ合うが、最期に及んで徳兵衛は愛するお初の命をわが手で奪うことに躊躇する。

それをお初は「はやく、はやく」と励まして、遂に短刀でお初の命を奪い、返す刃で自らも命を絶った。

かくして現世で悲恋に満ちた最期をとげた二人の死を、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と来世でのかたい契りとして結末と成る。

この世のなごり夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜
一足づゝに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれ数ふれば、暁の
七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の 鐘の響きの聞き納め

お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれています。
悲恋ではありますが、添い遂げた人生に感じるものがあるのか、お若いお嬢様方が大勢参拝されておりました。

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どうしても期日内にあげたかった記事。結果的にやっつけ仕事みたいになってしまった。隊長に怒られる~。