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展示の振り返りなど

「らしさ」

立命館大学 有志 4名
2024/08/20 ~ 2024/08/25
@京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスク

後輩の青木くんの誘いが1年半ほど前にあり、4人展、グループ展という形で写真展を行いました。

約425名と昨年同会場で行ったサークルの展示の1.5倍くらいの人が来てくださったり、遠方からわざわざ見に来てくれた方もいてとても嬉しかったです。結構考えることがあった展示なので忘れないうちに振り返っておこうと思いました。全ては過去になってしまうので…
(旅行を挟んだのでもうかなり怪しい)
(その後も2つ旅行を挟み、かなり限界に)


どんな展示か?

出展者4人、そして見に来てくれた人と写真のらしさについて、「ともに考える」ということができたらいいな、という展示だったのかなと僕は解釈しています。

共に哲学する、という文言がちょうど今年の春学期にとっていた授業の先生が連呼していたので、青木くんはその教授好きなんかな、とかも勝手に思ったりした。

「わたしの写真」については語れても、ともに一つの写真というものの「らしさ」を共有し合う、写真って何、的なことを話し合うということはなかなかなく、僕も結構話したいなぁと思いながらも全然積極的に動けていなかったところで今回の展示の機会があって、いろいろ頭を捻ったり、人と話したりすることが沢山できて個人的には有意義だったなと思います。

「写真らしさ」を語るのに、しかし出展者は学生、しかもそれぞれ写真に、美術に精通しているというわけではなく、大学になり写真に触れるようになった面子。学部もバラバラです。僕は文学部の地理系専攻。

でもだからこそ、知らないが故の批判すべき点や、見落としていた部分の再発見があればいいな、的な感じですかね。(全部青木くんが考えてくれたステートメントに書いている)

ステートメント

「写真らしさ」とは何か?「写真らしい写真」とは如何なる写真であるか?

これらの写真への問い——これらが全てではないことは言うまでもない——には、未だ答えが出ぬままである。何故我々写真家は、これらの問いに対する答えを持たぬのであろうか。それはただ単に、我々が答えを出そうとしていないからではないか。何故我々は答えを出そうとしないのか。それは我々がその問いがあまりにも難解であると、あるいは答えを出すことは無意味なことであると考えているからではないか。

しかし、これらは本当に難解であるのか。本当に無価値であることなのか。我々はこれらの問いに答えを出すために、またこれらを問い、解くということは如何なることなのかを確かめるために、「写真らしさ」とは何か、を問うてみようと思うのである。我々の写真歴は決して長くない。また我々は写真に精通しているかと言われればそうでない。しかし、そのような人間たちが「あえて」、写真らしさとは何か、と問うてみることも、それなりに価値があるのではないかと、我々は思うのである。

この展示のテーマは、「私が思う”写真らしさ”」である。この展示に参加する四人は、立命館大学の写真部及び写真研究会に所属している。両団体の垣根を(非公式ながら)超えて、そして哲学や芸術批評、絵画や映像、音楽など、各人が持つ「ユニークな」思想と視点を以てして、作品制作及び「らしさ」の探求に臨んだ。

我々がステートメントと写真を以てして開示する、我々の考える「らしさ」は、もしかすると大いに批判すべきものであるかもしれない。あるいは各々の考える「らしさ」の中に、共通点が発見できるかもしれない。そしてその「批判」と「発見」が、我々写真家が「写真らしさ」を知るために必要なものである、ということを私はここで非常に強く強調したい。

何はともあれ、我々が「写真らしさ」なるものを見つけ出そうとすることで、我々写真家が「写真らしさ」、あるいは写真に対する「知」に一歩でも近づくことを祈る。

展示風景

会場は京都市東山区にある、京都写真美術館の二階。
近くに京セラ美術館や平安神宮があるため、海外の観光客の方もよく来てくださいました。

青木くん、岡本くん
自分と米田さん
自分と米田さん2
岡本くん
自分
米田さん


自分のアルバム
コメントなど用ノート&僕のをちょっと説明しているファイル&青木くんの「反写真論」


こんな感じでした。やっぱりグループ展となるとこれまで参加していたサークルの展示と違ってかなりスペースに余裕があるので、自由度高くていいですね。

あと空間にゆとりがあるので、ある程度個性を出してもなんとなくバランスが取れているような、そんな感じがあって、僕が見ている分には気持ちよかったです。

自分のについて

ステートメント

私が思う写真「らしさ」

ある日の風呂上がりにふと、人間が自己を認識できる方法は 3 つほどあるな、と思った。

水面やガラス、そして鏡に自分の姿を反射させること。
他者やモノに何か働きかけ、その反応を受け取ること。
写真に写されること。

全て何かしらで自分自身を「反射」させているのではないだろうか、と思いついた。

月もやはり、太陽の光があって初めて我々の目に触れるように、また我々も光というものがなければ互いの姿、自身の姿を形として認識することはできない。また各々の活躍や行動は、また別の事象に反射することで初めてその結果として我々の目に飛び込んでくる。

写真も然り。
写真は我々の姿を現実に極めて近い形で映し出し、提示してくれる一つのメディアであり、だからこそ他には変え難い魅力を持つ、「らしさ」を感じさせてくれる。

そしてまたある日の風呂上がりにふと、「写真」の写すものは全て過去であるよな、と当たり前のことを思いついた。

全ては過去になる。
行った場所、会った人、その全てが過去になる。我々は過去を積み上げて生きている。また写真を撮る人のうちの幾らかは、膨大な量の写真を撮ることでそれらを索引する。

写真が写すのは我々がみたものの鏡像であろう。
小手先の技術で誇張や整理はすれども、全て私の眼前に広がった光景であり、出来事であり、事実として記録されたものであることは間違いない。

全ては過去になる。
昨日の私も、1 年前の私も、今はもう存在しない。私たちは過去の自分を積み上げて未来の自分へ向かっている。見たものも、聞いた話も、写真に写した光景も。
展示に使用している写真も、確かにあった私の過去である。記憶は鏡像になり私たちの外殻を形作る。または曖昧な私自身の姿を断片的に定義する。


三輪恵大

うん、なんだか稚拙すぎて恥ずかしいですね。

ただ、ずっと正直に思っていたことをそのまま書いただけです。
就活中、広告会社の3次面接で、一回写真のことについて聞かれたことがあって、同様のことを話しました。なんか引かれてた気がして落ちたなコレ…って思ったら通ってました。なんなんだ。

あまりにも当たり前のことを、あまりにもそのまま書いているんで結構なんとも言えない文章なんですが、あの写真美術館という場所で読むとギリそれっぽく見えるのかな…?わからん

書き直すことも何度か考えたんですが、「そのまま」なのがいいかなと思って恥ずかしいままにしてみました。ということにします。

とにかく、反射と過去、みたいなところなのかなと思います。今回のに関しては。

(自己を認識できる方法、声とかもあるんじゃない?っていうツッコミを展示中もらって、確かに〜〜という話をしたんですが、もしかしたら2つ目の「他者やモノに何か働きかけ、その反応を受け取ること。」に当てはまるかもですね。空気を振動させ、それを耳という器官で受け取る。)

というわけで
①鏡や水、ガラス系などビジュアル面での反射
②何かに働きかけた時に何かが起きる、という現象や実績、行動とかの面での反射
③写真に映されるということ、つまり自分という物体に光が反射し、それを受光した素子が変換されて我々の目に入るということ

ってのが大体あるよな〜〜〜とシャワー終わりにぼんやり思うわけです。

この時、①は完全にリアルタイムで起きることですよね。そして自分そのものを視覚で認識できる。
②はコップを割るとかならその時におきますし、実績系なら「過去」になるでしょうか。③は完全な「過去」であり、例えば僕がスナップを撮りまくって一つにまとめたらなんとなく趣味嗜好に人柄、モノとの距離感、人間関係が透けたりしますし、僕そのものが写った写真があれば僕をその画角で見ることができます。

繰り返している、全ては過去になる。ってのもまあ超当たり前ですよね。「今」読んでいただいている、この記事が書かれたのももちろん過去。
全ては大体不可逆で、未来は不確定なくせに写真に残っているのはどうしても過去で、その過去は確かにあったらしい、みたいな。

本当にその程度の、当たり前のことなんです。


作品

あんまり自分のアウトプットを「作品」って言うのが得意じゃないです。

多分その感覚は、もっとこうしていればな… みたいなのとか、考えたり作る中で自分に不足感を常々感じさせられているから発生しているものな気がします。とりあえず以下。

「その程度のこと」
「写真」
左側の大きいプリント


奥の2枚 ,ブック「過ぎ去るイメージ」  / 手前のアルバム 「日記」
「境界線」

なんかこう、プリント一つ一つに名前をつけるのもまだ慣れないです。(こういう場所のこういう展示なのでつけるのが適切なのかも知れませんが)

このあとそれぞれについて軽く紹介や説明(?)です。
ここから長いです。引き返すチャンス。

「その程度のこと」

自分の出したもののメインであり、同時に後の日記やファイルの前座でもありそうなやつです。

鏡に映る、写真に映る、映像に映る、
言葉に残る断片以外の自分自身の姿かたちを、
私はまだ知らない
.
毎日、毎日、鏡で身だしなみを確認する。
その日の自分の顔面と対峙する。
そういえば、時間を圧縮して一覧することはないな、と思う。
そんな単純な興味本位。
写真らしさ、時間と深く結びつくところ。
写真の撮られた時、それを何者かに目撃される時、
そこには必ず時間の差異が生じる。
その程度のこと。

ながめのキャプション。

なぜこのようにしたのか

L判で一覧できるように見せているのは、単純に積み重なっていく日々の、流れ去っていくイメージを一目で見る方法って、残念ながら編集画面のサムネイルくらいしかないな、って思ったからです。

なんとなく以下みたいなサムネイル見ている感覚をもっとデカい表面でやりたいな、と思ってました。

このように

写真集や映像で連続性と共に受け取ったりすることはできるのですが、できるだけフラットにいろんな状態の自分と対峙する方法って単純にこんな感じかな、と思って並べた次第です。

パソコンは0.1秒ずつ、展示で使っている写真及び自分を構成していそう、
と思った写真を並べて動画にしたもの。目がチカチカしそう。
意外と軽いのでDavinciの編集画面をそのままループ再生で使いました。(謎) 
こちらはブック。これまた動画同様、展示に使ってる写真とか、横構図で弾いたものとか、自分を構成してそうな写真を並べたものです。
4冊の表紙はそれぞれ、逆に衣服や家具、実家とマンションの洗面台にしました。

4冊作りました。でも自分ばかりなので見返してもなんともいえない気持ちです。
ブックの背表紙「01413255214142」は、ポケベルの暗号で「わたしのかたち」です。現時点で集まった僕の形の断片。なんかでもそのまま日本語タイトルもしっくり来ないし、展示終了後に気が変わったら嫌なので数字にしました。

鏡は使ってみたかった、というかこれら洗面台で撮ったりした写真に欠かせないものだし、そもそも(レフ機やRF機など)カメラに欠かせない要素だし、閉鎖空間に広がりを持たせてくれる「偽物の窓」だし、そもそも好きだし…みたいな感じでしょうか。

とにかく当たり前が過ぎる話なのですが、こうして今読んでもらっている瞬間も刻一刻と過去へと過ぎ去っている中で、鏡は今を映すし、写真はその今を過去にして未来に留め置いてくれる手段だと思います。

それは言葉だけよりも、絵よりも、映像よりもそれ「らしく」あるものかなと思っています。
(映像はどちらかというと「今」のメディアである特性が強いと感じています)


なぜ自分の姿ばかりなのか
まず第一にステートメントにもあるように、シャワー終わって洗面所で考えているから、ということは何よりの理由かもしれません。

あとは特別技術もない、突飛な発想もしない、恥ずかしながらインプットも知識も足りていない、という中で自分そのものを使うというのが結構手っ取り早い方法での「自分らしさ」の方を出すことができるよな、と思ったというのもあります。単純だ。

なんでかはよくわかりませんが自分という存在の不確かさに興味があります。いや、他人もかなり不確かな存在ではあるんですが。


僕自身、僕がまだ、まだまだよくわかりません。
就活で何度自己分析しても、MBTIとか星座とか血液型とか知っても、鏡で毎日「今」の自分を見つめても。

写真を初めて自然にnoteを始めた。フィルム写真を全てプリントするようにした。SNSにほぼ毎日何か投稿し出した。就活中にyoutubeを撮り始めた。小学校からの友達に押されてBeRealもインストールした。

AIが本当にすごい進化して、大量に残した自分の姿、声、話し方、写真の撮り方に考え方に、特性に、それらを全部食わせたら写しが作れるのかなぁとか、ちょっと興味があります。

とにかく今はたくさんの断片をちまちまと作っている気がします。


ちょっと振り返る

大学2年の学祭ではちょっと内省してみよう!と思ってこんなこと思っているな、という写真をもとに出てきた言葉を付箋に書いて写真の周りに貼りまくってみたりしました。

以下はnoteに全部書いて写真貼ったもの。

幼稚だなぁとも思いますが、確かに思っていたことではある気がします。1はなんかその時のお悩み相談みたいでアレですが、2は今も変わらず思ってたりするかもしれない。


お次の展示、大学3年の新歓展では、映ルンですを1個使って、町中の反射物などで写った自分を撮ったものと、他の人に撮ってもらった自分を使って、パネルにプリントを貼ってちょっと立体的なコラージュみたいなことをしてみました。
見た目が楽しくて結構好きだし、もっと拡張したいな〜と思ったりもします。


サークルの代表にFUPCの企画や幹事長、個人事業主にといろいろさせてもらったり、たくさんの人と会う中で、いろんな自分がいるなぁと感じたり、もはや(社会的な)自己認識の方法はその二次情報の方がメインで、それにより自分は形作られていそう…!とか思ったり。 (個人的なので近いこと感じている人以外に説得力が無さすぎる)

で、とにかく毎日めぐるましくいろんなことが起きるし、その度、どんどんそれまでの自分は過去に押し流されていくし…で上に上にとパネルを積み上げてみた、って形になりました。

このとき、ずっとセルフを自分の作品として作られてきた先輩がいまして、その人からちょっと「確かになぁ….」と思わさせられるコメントももらったりして、いろいろ考え続けてみたりもしました。
(KGとか撮影チームとか引き入れてくれて感謝が止まらない)


で、その後いろんな人に撮ってもらおうとしたりてたんですが、そもそもスケジュール面のハードルとか、洗面台で前述のことを思ったこともあり、鏡でほぼ毎日自分を記録してみるようになりました…

という感じです。

大体半年くらい。
いろんな自分がいます。
もちろん就活真っ只中なのでスーツもいます。

zoom面接はほぼ自分との対話ですね。
笑えてるか、意思を感じさせる顔してるか、ハキハキ話せているか…
うっかりしてない回以外はできるだけ録音もしました。
ほぼ面接官さんよりも自分を観察していた気がします。


泣いてる日もあるし。

そういう日もある

フィルムの日もあるし。

とにかくいろんな日があります。やっぱり全部過去の自分です。

カメラを置いた

せっかく鏡を置いて、大量の過去の自分を一覧させるなら、ちょっとした疑似体験もしてほしいし、鏡越しの自分を見てもらいたくてカメラをセンターに置きました。

あと普通に遊んでもらえて、かつてそこにいてくれたという証拠があるのがとても嬉しいので。

妙に自分の身長に合わせてしまった。
家でテストした時みたいに、もうちょっと低めに設置するべきであった。

結構やってくれる人がいたおかげで、1本半くらい写真が集まりました。現像が楽しみ。

洗面台で自分に対峙するのは当たり前ですけど、大量の自分の写真に見つめられながらまたそれを行うと不思議な気持ちになって面白いです。

一旦次行きましょう。


「写真」

先ほどの鏡の反対側に配置

A0にしました。デカいと嬉しいので。

というか写真そのもののイメージの力は全部僕の出したものが1番弱いだろうと思っていたので、ちゃんと窓は窓とすぐ認識できるサイズにしよう、つまり絶対デカいのがいい。

とか、洗面所の写真は標本やサムネイルみたいにL判で見せて鏡と。
とか、後述の2枚組はそれだけではちょっと説明不足だからブックも置いて、とか。
伝わりやすさや分かりやすさには少しは気を遣っていた気がします。

……

窓の写真を撮ることが好きです。おそらく、結構早い段階から。
窓枠もしっかり写し込みたいタイプです。

窓の外はデザインされていたり、しなかったりします。
僕は結構されていない側、ビジネスホテルとかの窓が好きだったりします。閉鎖感とギリ存在する開放感の塩梅が好きです。

より意識的に撮るようになったのは僕をチームに引き入れてくれた、いくつか年上の方のインスタグラムのストーリーを見て。おそらく撮影で遠出していた際のホテルの窓の写真だったんでしょうが、なんとも妙に印象的で、自分もやるようになりました。

話を写真に戻すと、これは東京で最近あった内定者懇親会の際泊まったホテルの窓です。文字が実は反転してるな〜、と思ってくれた人がいるかは分かりませんが、鏡に映った窓の写真です。ちょうど窓と鏡が対面する構図になっている部屋だったんですね。いい部屋だ。

実はエルマリート のフードとかも映り込んでたりします。

というわけで当たり前の話ですが、向かいの鏡越しにこの写真を見ると本来の風景の方向で見ることができます。

ギャラリーの下見の際、絶対この配置がいいなぁ〜と思っていたのでさせてもらえて嬉しいです。

意識はしていなかったんですが、来てくれた榎本さんに「ニエプス?」って聞かれた時は思わずにっこり。ちょっと畏れ多いですが嬉しいですね。

でかいプリント、鏡越しの窓、モノクロ、 「写真」だなぁと思ってそのままタイトルにしました。

写真、窓の要素、鏡の要素があると思うんです。
もちろんカメラの構造としてファインダーという窓があり、ミラーを持っていることが多い、というのもありますし、それだけじゃなく。

これ思った時、既出の発想かなぁとネット調べたら全然ありました。しかも全然シャーカフスキーがMoMAで企画展してました。当時の有名写真家ごっそり使って。ワイ、畏れ多さに死亡。

とにかく、「写真」は今よりもっと小さな世界で生きてきた僕に、窓としてたくさんの景色を見させてくれました。どこかへ旅したいと思わせてくれました。気づかなかった光を発見させてくれました。

こちらは動画も含まれますが、たくさんの人と出会わせてくれる「窓口」にもなってくれました。ただの学生が体験し得ない現場に飛び込ませてくれました。

まあ一方でのめり込むあまり、知っていくなかで形成されるその窓枠は思ったよりも強固で、不自由なものになりつつあるかもしれません。柔軟ではいたい。

そしてまた振り返る

さて、振り返りのコーナーです。
1年生の3月ごろは「春展」京都駅のオープンスペースにあるコンクリ+ガラスのやつを「窓」としてこんな写真を出しました。

「遠く見たあの光景へ憧れていた日の僕に」

大学入ってから結構支えられてる曲でこんなのがありまして。

かなりポップなのですが、歌詞が超背中押してくれて、開業する時も就活の時も展示の時も勇気づけてくれてました。

最近のマイブームはこれ。


単純人間、かつ助けを求めるの下手なくせに応援されたいがちなのでこういう曲好きです。一人でも戦うのだ、という気持ちになる。


んで、2年生春展

「窓の外、私たちは自由」

濃霧の阿蘇の廃墟、放棄された納屋の窓が良くて撮りました。
ハッセルにプラナー80mm、Portra400nc。

この時は来春には就活か〜とか、もっと視野広くしたい、とか、スマホとかの小さい「窓」よりももっと顔上げたいな〜とか思って、そんな気持ちがありました。

という感じでなんか割と過去から引っ張っている…?とか思ったり思わなかったり。

というわけで展示中にも振り返って思ったんですが、1年2年よりかは窓(視野や経験)、デカくなったかな〜とか色々見たかな、と思う一方で知らないが故のアホさとか衝動性、僕もできるもん!マインドみたいなのが弱まって、その窓枠(固定観念や恐れ)が最近とても邪魔だなぁ……………とか思ったりします。

頑張っていきたい。

「境界線」


ショーウィンドウの中に置いていた写真です。
iPhoneを川に突っ込んで自撮りしました。
さすが高画素、プリントしても全然ピクセル的には問題ない。スマホすごい。

まあ鏡の自撮りの派生というか、締めにちょうどいいなと思って一個分けて出しました。

「その程度のこと」のほうにチョロチョロと登場する水仙。学名がnarcissusで、まあそのまま読むと分かる通りナルシストの語源的な感じです。家の近くの川によく生えてるんです水仙。

narcissusはギリシャの神様としてあって、若くて美しい神様だったんですが、森の妖精の求愛を拒否った結果、自分自身に恋してしまう呪いをかけられてしまいます。

その後水面に映る自分自身の姿に一目惚れしてしまい、その姿に近寄ろうとするあまり泉に落ち溺死or水辺で餓死します。

なんかセルフ撮りまくって、掴めない自分の形を探して水中でも撮ってみよう、とか思ったりしてるあたりなんだか違うけれども、それっぽいな、と思い。

あとスマホ写真なのもなんかいいなって。セルフィーのイメージ強いですし。

...

時間はもちろん、日々とっては流れ去るイメージも、二度と同じ状態のこない自分自身も、流れる血も社会そのものとかも、なんか川みたいで面白いなぁと思います。

お気に入りの清滝って場所は綺麗な川で、よくいくんですけど、川に使ったり眺めたりするのが心地いいのもそんな循環を感じるからなのかなぁとか思ったり。

んで持って写真にも、これを書き残す機械にも、僕たちの体そのものにも水は欠かせないし。

自己を認識する方法、という1個目のやつの話に戻ると、水に浸かるとなんだか空気よりも他者よりも遥かに確かな感触を持って、モノとしての自分自身の境界線がある種定義されるような感覚があって、なんか面白いなと思ったところがあります。
写真としてはすごく曖昧なのに、自分自身の触覚はしっかりとここ、ってある感じがいいなと思います。写真の伝わらなさと似ている。

まあでも多分これ一枚だけで思うことはあまりないです。


「過ぎ去るイメージ」

友達にブレッソンじゃん、と言われてにっこり。
キャプションにも、もろに決定的瞬間とか書いてるのもありますしタイトルも「逃げ去るイメージ」を気持ち的に変えた感じに。

もう二度と来ない日々を尻目に、ありふれた決定的瞬間を待ち侘びている。

もうこれは完全にただのスナップです。

なんというか、ステートメントに則りつつ若干方向が違う感じにしたくて、みたいな感じもあり。

額装は2枚組、女の子がジャンプしているのと、鳥たちが飛び立つ瞬間です。

左はM6,右はM10

構図が似通っていること、でも落下と飛び立つ時の対照的な瞬間で、並べるのにちょうどいいなと思ったりしました。

もはやその要件がコード化されているような気がしてくる「決定的瞬間」を、スナップ写真的なものを撮り出しハマるとどこまでも追い求めてしまいます。

ただ僕レベルの話、突き詰めるまで行けていないそれは、結局似たり寄ったりのイメージの集積が溜まっていくだけな気がしています。

あまりにもそれらはありふれていて、なんというか、撮影者その人しか見ることのできないはずの瞬間、その人しか許されない瞬間をたくさん見逃しているような気がします。むずかしいところです。

ゲーム的な感覚ではその「決定的瞬間」的イメージを探し、撮影し、LCDやフィルム面にある種ドレスコードを満たした写真を見つけるととても楽しいんですが、内省した際には少々重要度が低く、真っ先にインターネットの流れにポイポイ放流するタイプでもあったりします。

多分、だから、過ぎ去るイメージなんです。全部流し見です。
少なくとも現時点の自分が反芻したいのは、多分別の瞬間かもしれないです。

表紙は食べ終わったケーキ。

文字通りよく撮れたスナップ、いろんな時に、いろんな場所で、だけどおんなじような写真がたくさん入っています。

ライカは鳥を撮りたくなるのかな。
あと走ったり飛んだり遊ぶちびっ子たちに、ハットの男性。おんなじようなものばかり。

もちろんこれのために作っているので恣意的に似たものを寄せ集めては居るんですが、あると思うんです。

歩いてる人が人の字みたいに足を広げた瞬間とか、雨や雪の中映える赤い傘とか、タクシーから出てくる人の足元に、地下鉄とコンコースの微妙な隙間、光と影の交差に通行人が飛び込んだ瞬間、咄嗟に撮った自転車、もちろん多くの人各々の趣味嗜好もあれど、こういうテンプレ的なものも撮っちゃう。

ブックの名前がit was onceで、なんとなく「それは かつて あった」を意識してます。

そういう感じです。

「日記」

ここに僕の人生は記録されているだろうか、ライフログを呼び出して、自分の伝記を編集するよう指示すれば、今、僕がどう生きていくべきかわかるような、そんな物語を紡ぎ出してくれるだろうか。

「虐殺器官」で、主人公が彼の判断により亡くなった母の記録を眺めていたときに考えることをちょっと借りてしまってる一文なんですが、大量に写真を撮ったりしていると、この文言や、他にある「視線」に関する描きかたが妙に共感というか、印象的で忘れられないです。

アルバムそのものとしては、2年と少し前から全てプリントしているフィルムの写真たちを時系列に詰めたものです。

なんとなく始めたのはフィルムの物質性、同じカットの少なさ、銀塩プリントの保存性や手焼きするときのガイドなどいろいろあるとおもうんですが、何より言えるのは想像以上にいろんなことが起きてる身の回り、とか思い出、とか忘れたくないかもなあというのはありそうです。

全部プリントしよ!アルバム作ろ!て気持ちは東北の震災で生き残った「写真」たちのほとんどが銀塩プリントだった、という事実が強いです。デジタルネイティブかもしれない世代だけどそういうの聞くとフィジカルで残るものも作っておきたすぎた。そもそもフィルムが僕の写真とのファーストコンタクトだったのもでかいです。

あとはまあせっかくフィルムやってるのにスキャンデータだけもらってても味気ないなぁとずっと思っていたこともあったり。

とにかく、ただただ、フィルムで撮った写真をほぼ全て詰めているアルバムです。

並べた時は意図はなかったんですが、奥と手前で、自分の作品の中でちょっと対照的な感じの構造になったのはちょっと嬉しい。

これこそ一番わかりやすく、こういうの、撮ろう、とか抜きに僕の身の回りで「かつてあった」こと、目の前で確かにあったはずの過去、ウンタラカンタラ。

所謂私写真、的なものたちで、結構自分の中では大事にしたいなぁとか思いながら撮り溜めています。とても身近な写真。身近な人たち。デジタルが代謝的な感じでとってはすぐにネットにポイポイしがちな一方、フィルムはタイムラグもあるし、これは懐にとっておこう…みたいな写真も多い気がします。

やっぱり自分ごと、として写真を見た時に、写真らしさって確かにあったはずの自分の過去でしかないし、例えば写真を普段撮らない多くの人にとっての「大切な」写真って身の回りの物事や家族友人恋人とか身近な関係、とかなのかなぁとぼんやりと思います。


なんとなくもう一度目次を設置。


なんか流れはあった気がする

自分の中では上記の目次の通りの流れで見てもらえたら嬉しいな〜〜〜という脳内でした。もちろんどこから見てもいいとは思いますし、グループ展ですからそれはもう。

ただなんかステートメントの通り、僕結構ディスプレイから離れた瞬間とかに、「あ〜〜」とミニマムな考え事をすることがあって、それこそシャワーとか自転車とか乗ってる時。

ということがあったのでそこからの流れでこう、鏡見ながら考えたこと、普段自分にとっての写真で感じること、作品以前な強度のスナップ写真、とりあえず日記だけはつけたい、みたいな気持ちがあった気がします。

モノクロ

カラーネガの「日記」以外は今回の展示作品全てモノクロになりました。

これは企画当初から自分の中で決めていて、まあアイコン的なものをなぞりたいという考えがありました。

・どちらかというとフィルムがいいな
・どちらかというとモノクロがいいな

みたいなのは写真「らしく」しようとした時に早々にあったみたいです。
なので「その程度のこと」も「過ぎ去るイメージ」もモノクロフィルムが色々消費されています。

結構単純発想すぎるんですが、まあ「カラー」写真が登場したのって割と最近だよな〜〜〜とか思いながら考えてたことがあって。という感じです。

あと、やっぱり、より個人的な写真群が日記なのかな〜〜〜と思ったので、それだけカラーになることで結構他との差をつけたいなという気持ちは後から「そういえば」という感じで出てきます。

初手の鏡の方についても自分の顔っていう個人的な物を扱ってはいるけど、そうじゃなくて簡単な追体験的なものがあればいいな〜という作りにしたつもりで、なので日記だけが私そのものの姿が見える写真な気がするな、と思っています。(変な文章)

気をつけたこと

一番「わかりやすい」といいな、と思いました。

これは結構自分自身が「作品」を見て、わからん…ぉぉぉ…となるからかもしれないです。

元々なんか作るのは好きだったり、美術館そのものも好きだったり、作家で好きな人はいたりはするんですが、いかんせん読解力がない。マジでない。

ので、表層の表現とか技術とかはなるほど、みたいな感じでわかったりはするんですが、それ以上の理解が初手、しかも展示みたいに一周二周短時間見て回るスタイルだと自分の場合なかなか難しくて。

大学2年生の時からKYOTOGRAPHIE関わり出したり、半年くらいアートのワークショップの撮影させてもらったり、秋にはnuit branche kyotoとかACKの撮影とかで参加させてもらって興味はかなり高まってますし、チョロチョロと本を買い、教養授業もそれっぽいのを取りまくったり、できるだけ能動的に情報を得たり考えたりするようにしよう、とは思ってるんですがまだ足りない。

デカ目の展示会とかだと、ステートメントやキュレーターの方のコメント、解説などが付される場合があるので、なるほど〜!という面白さがあったりするんですが、たとえば「卒展」とかの規模感の感じだと、どうも作者ではないから全部汲み取れぬ…涙 という事象が多発。

なのでできるだけ身近でありたいな〜とか、自分の延長線上にありそうかも〜とか、一回はしたかなコレ、とかそういうのは意識したつもりです。

自撮りしたことマジでない、とか鏡全く見ない人っていないよな…

でなんか決定的瞬間とか、そういうのも写真が好きだとちょろっと見聞きしたりブレッソン好きンゴ、みたいな人もいたらいいな〜とか思ったり、窓って絶対カメラについてるし覗き窓やしファインダーやし云々…みたいな

あとは加えて、このnoteの超簡易版のファイルみたいなのも置いてました。あんまり長文だと読む気起きないので、A4で余白マシマシ、みたいなやつを作品の写真と一緒に。


右から二番目のヤツ

先輩からも寄り添い感あったと言ってもらえて嬉しい。

とりあえず自分が気持ち良くなるのも大事なんですがなんか名目的には伝えることが大事そうな感じだったとは思うので、ふんわりでも伝わってたらいいな〜と思います。

付箋について

一緒に考えたいね。という展示だったのもあって、みんなでコミュニケーション手段あるといいよね〜と話してました。

で、投書箱スタイルもなんか見にくいし、googleのアンケートとかもなんかアレということで付箋を壁に貼り付けるのはどうだ〜〜というのが採用。

見にきた人も他の人の解釈的なのをちょろっと見れたり、我々の展示期間中の時間潰しになったり、終わった後も写真とればメモ的に記録残せるのでいいな、という感じになりました。

大学2年生の時の学祭でそういうことしたかったんですが、結局自分だけでやってたので実現っぽいことになってとても嬉しい。


なんか結構集まったものの雰囲気的には、やっぱ記録性とかへの言及が多いな〜と思いました。



自分への影響

展示、面白いな〜と思いました。

やっぱり空間大きく使えるのは楽しいし、A0とか壁一面使ったりの、自室、普段の学祭的な展示では難しいことができるの面白いです。単純に。

あとは1年前から企画があって、という状況的な部分で、やっぱりすごい時間をかけて考えるって大事なのかもなぁ思いました。自分の話なんですが、学祭の展示とかだと1~2週間しか考えてなくて、どうしても足りないなぁと思うことが多かったので。

そして1年時間があってもやっぱりこう、締め切り前に阿鼻叫喚、となってしまうものだなぁと思いました。自分のケースで行くと、「この気持ちとかをよりちゃんと整理するためには圧倒的に語彙力などが足りない…!」「もっと説得力を持たせたいがふんわりとした話しかまだできない…!伝えたいのだが…!」というのがすごいあって、あ〜もっと勉強しよ、となりました。

勉強の習慣がある人ってすごいし自由研究がちゃんとできる人ってすごい。マジで。本当尊敬しています。

写真らしさ

写真「らしさ」ってなんなんですかねぇ。

とりあえず自分が出していたもの関しては、
「パっと出てきた一側面についてゆっくり形にしてみたらこうなった:D
流石にここまで『すぐそこにある』感じはみんなも思ったことあるよね〜」
という雰囲気がありました。

記録、記憶、窓と鏡、時間、視線

実際のところ写真らしさについて改めて考えるとどうなんでしょうね。
メインのステートメントにもあったんですが、みんなで一緒に考えれるといいなと思います。
し、それが少しでもできればというのが付箋だった気はします。(果たして

続けたほうがいい気がする

この展示、100回くらい人を変えたり、発想を変えたりしながら「らしさ」とかを追求してやるべきだなあと思いました。

単発だと勿体無いというか、展示をしてみて、なんとなくやってること、やりたいことが、昔あった写真運動的なものとか、プロヴォークみたいな取り組みとかと通ずるところがあるのかもしれないな、というのがあったからです。(自分の中では)

こう、徒党を組んでみんなで追求してみる、考えてみる、問いかけてみる、みたいなことを反芻するのってやっぱり複数人だから楽しさがあって、威力があって、続けられるものがあって…と思ったりしまして、まあ一人とか同じメンツでやってもネタ切れもあるし。

そして続けていく中でやっぱり出す人その中で、気づくことももちろんあったり、取り組みそのものが広がっていったり、そうして流れみたいなものが出来上がっていくのかな〜とかぼんやり展示が始まってから考えていました。

あと時代的にもいわゆる写真、映像、画像、デザインなどなど過渡期みたいな雰囲気もあるし、普通にいろんな人の語ることを見たいな〜というのもすごいあります。

終わり

書き始めてからドタバタ夏休みが本気を出してきて1ヶ月くらい発酵させてしまいました。おかげでおそらく当初なら出てきたことが息を潜めてしまった……

やはり鉄は熱いうちに打つに限りますね。

何はともあれ、展示は参加できてよかったなぁと思います。SNSやら普段から息を吹けば飛んでいくだろ、みたいな軽いアウトプットはしまくっているものの時間をかけたり考えたりして、みたいな経験は乏しかったので、ほんとよかったです。んで、やっぱこれに限らず繰り返し自主的に展示とかは続けたいなぁと思いました。(本気で作家してるんだが!みたいな人からするとあんましな考えかもしれませんが)会いたい人と会える口実にもなるし、きてくれたんだ!みたいな嬉しさもあるし。

改めてメンバーの青木くん、米田さん、岡本くんに感謝を〜〜〜
そしてきてくれた人にも感謝を〜〜〜〜

それでは、また。

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