見出し画像

幸せって何だろう?~迷いなき歩みの先にあるもの~

――道の分かれ道に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれ
  であるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。

 つい先週、「湘南を歩く人」に参加してくれたNさんが、この聖書の引用文から始まる短い小説を書いてきた。(※聖書のどこからの引用かは聞きそびれてしまった)

 つい昨日、横浜で開催された「道草の家の文章教室」で僕はこれを読ませてもらったのだが、これが非常に唸らされる小説だった。
(→読んでみたい!と思った方は「道草の家の文章教室」にご参加くださいませ! 湘南の散歩屋さんも常連です。鎌倉会場のゲストハウス彩も超おすすめですよ。)

 Nさんが「湘南を歩く人」に参加されたのは、「歩く」をテーマとした回の文章教室へ向けた小説を書くにあたり、歩くことで自分の中から何が出てくるのかを感じてみたい、という理由だったそうだ。
 Nさんはもちろんプロの小説家ではないが、ここ最近になって創作意欲が内側からどんどん湧き出てくるようで、「歩くために歩く」経験もまた、聖書をモチーフとした小説に見事に昇華されていた。
(参加者が不思議と自分自身の内側から湧き出てくる何かに気づいていく。これが「道草の家の文章教室」の持つ謎の力であり、魅力です)

 Nさんの小説について、参加者同士で感想を述べ合っていると、Nさんが「この小説と、みうらさんの「歩くために歩く」ということは、通じるものがありますよね」と仰った。
 それは僕も感じていて、「幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せという聖書の言葉、迷うことなく自らの道を歩んだ先にあるものに、きっとNさんと僕は同じものを見ているのだと思います」と、そんな意味のことを僕は答えた。

画像1

 迷うことなく自らの道を歩む。
 それは、自分自身の決断で自分自身の人生を生きるということだ。
 誰かが決めた人生、誰かの敷いたレールではなく、たとえその道が狭くとも、自分の他には誰も歩むものはなくとも、その狭き門をひとり通る覚悟を決めて歩むこと。大勢の人で賑わう大通りを眼下に望んでも、ひとり堂々と狭き道を歩むこと。
 神は言うのだ「それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ」と。

「歩くために、歩く」
それは、自分自身の二本の脚と対話しながら、自分の歩める速度を知ることだと僕は考えている。そして、歩いているときに見えてくる景色が、本当に見える、いま、ここに、確かにある景色だ。
 車の速度、電車の速度、携帯電話の速度、インターネットの速度。それらの速度は、どれもが歩くよりもずっと速く、効率的に最短距離で人、モノ、情報を移動させ、点と点を瞬時に繋いでいく。
 しかし、それらの速度はあまりに速すぎるが故に、その強大な力で、僕たちを振り回していく。
 この速度で突き進んだ道の先には何があるのか。点と点を最短距離、最短時間で結びつけ続けていく世界に生きる中で、その間にある豊かな線と素晴らしい面の世界が、僕たちにはもう見えていないのかもしれない。
 そして僕たちは、それを薄々と感じ取っている。もし、本当に楽観的な未来がそこに開けているのならば、どうして僕たちは、この速度に不安になるのだろう? そしてなぜこの速度で生きる中で、身体に、心に、満たされることない病を抱えているのだろうか? 僕たちは、それに歩んで、たましいに安らぎを見出すことが、できるのだろうか・・・

 自らの道を歩むために、自らの道が見える速度で歩くこと。どこかを高速で飛び交う情報ではなく、自分の目で確かに見たことを信じていくことだ。

 そうした迷い無き歩みの先に、僕たちの未来は開かれていくだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
miuraZen
歩く人
湘南の散歩屋さん

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。

12月からフリーランスになります。

よろしければサポートお願いします! あなたの心からのご支援は「湘南の散歩屋さん」活動資金として使わせていただきます。