意味という言葉の意味は
「ただ歩くために歩くなんて、何の意味があるの?」
と、面と向かって言われたことは今のところ一度もありませんが、言わないまでもこう思う人は少なからずいるだろうな・・・と思っています。
意味、あるのでしょうか・・・?
あ、ないっすね(笑
僕ならば、こういう疑問に対しては、堂々と「あ、ないです、すいません(笑」と堂々と答えると思います。
そして逆に、やんわりと物腰柔らかく、洗いたてで柔軟剤の香りでふわふわのタオルで優しく包み込むかのような優しい感じで、とにかく優しくお伺いさせていただきます。
「ちなみに、その意味とは、何を意味しているのですか・・・?」
「意味」という言葉はとても曖昧なので、それに意識的にも無意識的にも僕たちが含んでしまっている「意味という言葉が示す意味」を紐解いていく必要があります。
それは「意味」という言葉を発する人の価値観と、それを取り巻くこの世界の価値観をともに反映している言葉だからで、僕たちがこの「意味」を使うときに、逆に「意味が意味すること」に囚われていることがとても多いのです。
人生の意味、生きている意味、仕事の意味、恋愛の意味、などなど。
意味という言葉が含む意味は、言葉では容易に語り得ないものの範疇であることも多いのですが、こと現代社会に生きる僕たちが使う「意味」という言葉の一側面を読み解くことはとても簡単です。
要するに「そんなことがお金になるのか?」ということです。
意味があること=お金になること。約分すると、
意味=お金
です。これが僕たちの社会が持つ価値観です。
「何の意味があるの?」
という質問は、何らかの理由に囚われている人の質問ではなく、お金に囚われた世界からのアイロニーです。
それは「人」ではなく「社会」に属した意味です。
もしその答えが「健康のため」だとしたならば、では「何のために健康になるの?」という問いはどうでしょうか? 「歩いているとアイディアが出る」だとしたら、では「何のためにアイディアを出すの?」という問いは・・・?
掘り下げていくと、「日々健康な体で懸命に働いて仕事で認められて稼ぐため」という、お金と関連づいた意味を求められていることがわかってきます。お金と紐付いていない理由に納得できない。
それは現代を生きる「人」が守銭奴だからということではなく、僕たちの社会が求めているのが、この価値観だからです。
資本主義にとっての意味=お金になること
こういうことです。
資本主義はお金を食べて大きくなるので、自分に食べ物を供給してくれない人には異常に冷たいです。まるで野良猫みたいです。
自分の体をガッチガチの数字の鎧で固めて、数字にならないものは一刀両断してしまいます。
資本主義の意味に囚われてしまうと、それ以外の意味を排除するようになります。僕たちが持つ意味は非常に多様で、混沌としていて、矛盾していて、容易に言葉にできないものが多い。だから僕たちは人生に悩むのですが、資本主義の意味は、そうした意味をバッサリと切り落とすことが出来るので、多様な意味を考えることは「無意味」になってしまう。
だからこそ、というか、僕は抵抗したいなと思います。
「無意味」とされるものを大切にしたいなと思います。
もちろん稼ぐことやお金が駄目というのではなく、稼ぐこともお金もとても大切にしたいと思います。
そして、社会のため経済のためにお金を稼いで生きるのではなく、僕たちが幸せになるために必要なお金を稼いで、必要なお金を使って生きられるようになったらいいなと思います。自分のため、そして大切な誰かのためにお金を使えたらと思います。
生きる意味ってなんでしょうね?
僕にもよくわかりません。
でも、お金を稼ぐことが生きる意味ではないことはわかります。
こんなに簡単にわかることなのに、ふとした瞬間に簡単に見失ってしまう。
「ただ歩くために歩くなんて、何の意味があるの?」
その意味は、ただ歩くために歩く僕が、いま、ここにいること。
そんなもんなんじゃないのかな。
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