”塀の外の教誨師”とは・・・
世の中の刑務所や拘置所には、教誨師と呼ばれる宗教者が出入りする。その数1820名(2020年1月現在、全国教誨師連盟サイトより)。しかし、刑務所や拘置所から釈放された後を「教誨(教え諭す)」する宗教者はどれだけいるのだろう。ぼくは、あえて”塀の外の教誨師”と名乗り自分の活動を記録していくことにした。
<ご注意>プライバシーには細心の注意をはらうつもりです。この仕事を広めたいという思いから記事を公開しています。ご寛容くださいませ。
”塀の外の教誨師”の仕事
大きく分けて2つある。
弁護士業界では「入口支援」と「出口支援」と呼んでいる。
「入口支援」とは、逮捕後に警察署や拘置所に身柄を拘束されている状態の人に対し、実刑にならないよう支援することである。要は裁判所に対し「この人への見守りはします。だから社会内処遇(執行猶予)にしてあげてほしい」と申告するのである。主に弁護士と協働することになる。刑事司法の最初、つまり「入口」段階の支援である。
「出口支援」は、刑務所から釈放された後、住む所や働く場所など本人だけでは難しい場合の支援である。生活保護申請や医療・福祉サービスへつなぐことも含まれる。刑事司法の終わり、つまり「出口」段階の支援になる。
「入口支援」が主に弁護士(会)から依頼がくるのに対し、「出口支援」の依頼主は様々である。本人は刑務所の中なので、手紙がくれば別だがそんなことができる人は支援を必要としないだろう。依頼主は刑務所のソーシャルワーカー(分類審議室)や都道府県地域生活定着支援センターの相談員となる。
いずれの場合も、福祉関係者や医療関係者と密接に連携することになる。が、あくまで宗教者の仕事は「教え諭す」ことである。
贖罪、そして懺悔
殺人などの凶悪事件を起こしたことがある人は、事件を起こした日にあわせて法要を営むことがある。刑務所から出たら「もう終わり」ではない。自分が犯した罪を一生背負う。
同じ殺人罪でも、介護殺人のように情状酌量が認められ執行猶予がつく場合がまれにある。ぼくも一度だけ関わった。逆に無期懲役や死刑といった判決もある。
どういう場合でも、福祉的支援の他に宗教的支援が必要とされることは多いと感じている。塀の中だけでなく、塀の外にも教誨師が必要と強く思う理由である。
くり返すことが多い窃盗と薬物使用
高齢になると服役経験が十回を超える人もでてくる。病的なものもあるが、「盗む」しか生きていく術を知らない人もいるのだ。薬物常習者も何人も関わっているが、今のところみな落ち着いた生活になっている。
高齢者には医療や介護といった支援が必要となる場合が多くなる。しかし、服役経験が十回を超えると、どうしても支援者側の「色眼鏡」が濃くなる。宗教者が伴走することで、それが少しでも薄くなることを望む。これも、塀の外に教誨師が必要な理由の一つだろう。
試される信仰心
”塀の外の教誨師”は、その信仰心が試される。いくら立派なことを言っても「口だけ」とみなされると辛い。「教え諭す」ことからはどんどん離れていく。
塀の中で宗教が必要なのは、「仮釈放」を得るための手段ではないのだろうか?崇高な精神で教誨にあたっている宗教者には失礼かもしれない。でも、ぼくは、塀の中と外で豹変する人たちを見てきた。
そんな人たちに根気よく伴走していくには強い信仰心が必要だろう。仏教でいうと「相手の仏性(成仏するタネ)」に出会えるかどうかである。そうでなければ、自分とは価値観の違う「変な人」にしか見えなくなってしまう。
”塀の外の教誨師”。仏道修行にはもってこいだと思っている。
合掌