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「生きている」の感覚は、遊びから生まれる。大人と子どもを自然にいざなう、原っぱ大学の真意

「みうらの森林(もり)プロジェクト」では、京急電鉄が三浦半島に持つ森林にしっかりと手を入れ、光の入る場所として生まれ変わらせたいと活動を進めています。このプロジェクトをとおして、初めて「みうらの森林」に向き合い始めた私たち。(みうらの森林プロジェクトについては、こちらのnoteを読んでもらえると嬉しいです!)

京急の100haの社有林にどんな未来を描くのがいいだろう。このnoteでは、三浦半島の自然やまちで活動する人、別の地域で活動する人たちへの取材を通して、その未来を考えていきます。

きれいな花があったら摘みたくなる。大きな木には登ってみたくなる。アリの行列をいつまでも見つめていたくなる——。そういう記憶はありませんか?あの頃、私たちは何を考えながら、自然を見つめていたんでしょうか。

今回は、大人と子どもの遊びの学校「原っぱ大学」を運営する、塚越さんにお話を伺いました。「みうらの森林(もり)プロジェクト」の発足初期から、京急の社有林を「宝の山」だと言ってくれた塚越さん。彼の存在があったからこそ、本プロジェクトは「場」としての可能性を考え始めることができました。みうらの森林を原っぱ大学の遊びのフィールドとして活用してもらっていましたが、2024年の秋からは、京急と原っぱ大学が連携し、法人向けプログラム「森林共創パートナー事業」を新たにスタート。森林と人々が共存できる場の在り方を模索していきます。10年間、森林を駆け回る子どもと親たちを見つめてきた塚越さんに、改めて「自然のなかで遊ぶこと」がもたらす可能性についてお聞きしました。

HARAPPA株式会社代表・塚越暁さん

【プロフィール】
塚越 暁
HARAPPA株式会社代表。神奈川県逗子市出身。都内での暮らしを経てUターンし、計40年ほど逗子に在住。リクルートにて雑誌編集、ECサイト運営、経営企画などに携わり、2012年に大人と子供が自然のなかで思いきり遊ぶ「原っぱ大学」を立ち上げる。大学生と高校生、二児の父。
聞き手:みうらの森林の編集室

自然での遊びが、親子関係と自分を変えた

——最初に、塚越さんが“遊び”に着目した事業を始めた経緯を教えてください。

塚越:以前は会社員として10年間、ひたすら数字を大きくすることだけを考えて働いていました。大きな転機となったのは、2011年の東日本大震災です。多くの人の価値観が揺さぶられたあのとき、僕自身も自分の生きる意味について考えました。お金を集めて投資して、最大化させて……これが人生を捧げたいことなのか?と、急に冷めてしまったんです。

ただ、会社員を辞めたところで、自分のなかに「好きなこと」「したいこと」が一切ないと気付いて打ち震えました。そこで改めて自分のことを考えたとき、逗子の海や山で遊ぶのがすごく好きだったことを思い出したんです。

——逗子で生まれ育った幼少期、やはり自然が身近だったんですね。

塚越:そうですね。野球やサッカーなどのスポーツは苦手でしたが、自然で遊ぶことは大得意。放課後に「サッカーやろうぜ」だとシュンとしちゃうんだけど、「山行こうぜ」と言われたら、もうガキ大将のように先陣切って進んでいました。

——イキイキと山で遊ぶ、少年の姿が目に浮かびます。

塚越:大人になってからもサーフィンが好きだったので、震災の少し前に、家族で世田谷から逗子に引っ越してきたんです。子育てする環境にいいだろうと妻を説得しましたが、本心は「サーフィンしてから出社できる!」という下心で……(笑)。ただ、引っ越しで思わぬ変化があったのは、当時5歳だった息子との関係でした。実は、世田谷に住んでいた頃は、子どもとの時間が苦痛で仕方なかったんです。

——え!そうなんですか?

塚越:仕事で疲れ切った週末に「公園に行こう」と言われて連れて行く。息子はずっと砂場で遊んでるわけです。僕は全然おもしろくないし、その時間があるなら帰って寝たい……と思いつつ、嫌々付き合っているような感じ。そのくせ、SNSには「息子と公園」とかあげてたりして(笑)

——リアルですね(笑)

塚越:そんな父親だったんです。でも、逗子に帰ってきたら子どもとの時間の質が変わりました。かつて自分が遊んでいた山に連れて行ったり、海岸で焚き火をしたり。特に覚えているのは、子どもと一緒にシュノーケリングをしたときのこと。キビナゴという小さい魚の群れがぶわっと僕らを囲んで、そこに太陽の光が差してキラキラと輝いて。「うわあ……!」と思ったその瞬間のことは、10年以上経った今でもよく覚えています。

息子が「遊んであげる対象」から「遊びのパートナー」になったんですね。当時はまだ会社員でしたけど、息子と一緒に自然のなかで遊ぶと、自分自身が解放される感覚があった。その体験が、僕のなかに残っていたから、震災後に「何をしたいのか」と考えたときに“遊び”が出てきたんだと思います。

——関係性が変わって、お子さん側にも変化はありましたか?

塚越:どうなんでしょう。わからないけれど、今フラットに意見が言い合える親子関係になっているのは、あのとき子どもへの関わり方が変わったからだと思っています。「親」って超大変なのに、「親だから頑張らなくちゃいけない」とプレッシャーを抱えている人が多い。それって親にとっても子どもにとってもしんどいことだと思うんです。

「大人だから」「親だから」と思う気持ちは真っ当だけれど、僕らだって親をやるのは初めてなんだから一緒に遊んでともに育っていけばいい。当時の僕が自然のなかでそういうふうに考えられるようになったのと同じ体験を、他の親に対しても届けているのが、実は原っぱ大学の一番本質的な部分なのかなと思います。

「遊び」は、自分が満ち足りた感覚を積み重ねること。「名もなき遊び」も大切にしてほしい。

——原っぱ大学の遊びには、そういった親子関係を変える目的があるんでしょうか?

塚越:いえ、僕らの遊び自体に目的はなくて。しいて言うなら会社の社是として「余の復権」と言っています。余裕や余暇、余白など、まわり道や立ち止まることを取り戻そう、と。今の社会では最短でゴールに辿り着くのが正しいとされるけれど、子育てや家庭でそれをやっていたら息苦しいじゃないですか。

だから、原っぱ大学は何かを学びにくる場所ではないんです。何も身につかないかもしれないけど、それでいい。自然の木が伸びるとしても一直線なんてありえないわけで、そういう遠まわりみたいな余計なことを、僕らの心の中に手に入れていくことが豊かさに繋がるんじゃないかなと。

——なるほど、「余」ですか。機械などでも「余裕がある」ことを「遊びがある」と言ったりもしますよね。

塚越:まさしく。「遊ぶ」という言葉は人によってイメージすることが違いますよね。「遊ぶ」ことを通して僕らが表現したいことは何なのか、3年ほど考えて辿り着いたのが「余」でした。

——「遊び」って、そもそも無目的なものだよねと腑に落ちました。原っぱ大学のプログラムでは、「無目的に遊ぶ」ということをどのようにアテンドしていくんですか?

塚越:原っぱ大学のプログラムでは、「今回は豚の丸焼きをします」「今日はどろんこになって遊びます」といったメインの活動を作っています。我々の活動も貨幣経済のなかで成立しているので、完全に無目的ではないという矛盾もあるんですね。ただ、原っぱ大学らしさというのは「そのプログラムを強制しない」ところにあります。

みんなで焚き火をして、スタッフが「よし、秘密基地を作るよ」と声を掛けるんですが、そのときに全員が参加しなくてもいいことにしているんです。「今日はそんな気分じゃないから」「今は焚き火を見ていたいんだ」でも、いいじゃんいいじゃんって。

——おもしろい!でも、親からすると「せっかく来たのにアリばっかり見てる……」と残念な気持ちになることもある気がして、そういう場面ではどのようにサポートしているんでしょう?

塚越:本当によくいます、何時間もアリを見てる子!ただ「せっかく来たのに…」と思ってしまう親御さんの気持ちも分かります。なのでそういう場面では、“その子へのまなざし”を渡すことを心がけています。例えば、一緒に「このアリンコすごいな!」と興奮してみる。そうやって、探求してる彼の姿は素晴らしいんだと親御さんに感じてもらったり、彼の集中力がいかにすごいことかを話したりもします。

僕らの考えは、決して「走り回る子がえらい」とか「泥んこになれる子が優れている」とかではない。ゆっくりでも慎重でもいい。それをよしと言える場に連れてきてくれた親御さんにも感謝したいし、ちゃんと価値があることを明確にお伝えするようにしていますね。

——客観的に伝えてもらえると、親としても良い時間になりそうです。アリを見ている時間も、ちゃんと「遊び」の時間なんですね。

塚越:僕らは「名もなき遊び」と呼んでいるんですが、木にくくりつけた紐にぶら下がるだけとか、棒で穴をほじっているだけとか、子どもたちにはそういう言葉で表現できないような遊びがあります。僕らが捉える「遊び」は、自分が満ち足りた感覚が積み重なっていくこと。僕自身もそれを大切にしたいし、原っぱ大学で親に見てほしいし、子どもたちに持ち帰ってほしい在り方です。

原っぱ大学には、そういう子どもたちの姿に気付けない自分を責めてしまう親御さんもいます。でも、僕らは何度でも「親のあり方に正解はない」し、「親だって失敗してもいい」と伝えたい。そして、原っぱ大学に来たことで、日常での親子の関係も少し変わったら嬉しいですね。保育園の帰り道にアリを見てしゃがみこむ子どもを、1回でも温かい気持ちで見れる瞬間があれば幸せです。

自分で決めてワクワクして、失敗も成功も自分のものとして受け取ること。

——原っぱ大学では「自然」も大事なキーワードだと思います。遊びのなかでも山や海などの自然環境で遊ぶことに特化しているのは、なぜなんでしょう?

塚越:まずは、僕自身が自然のなかでの楽しい経験から、多くを学んだ原体験があるのが一番だと思います。原っぱ大学は、活動内容から「環境教育」や「自然教育」と捉えられることが多いのですが、僕らとしては「心を遊ばせるために一番いい環境が自然のなかだ」と思って活動しているだけなんです。少し歩けばコンビニがある“裏山”のような場所は、遊ぶのに最適なフィールドだと思いますね。

——「自然」よりも先に「遊び」が入り口にあるんですね。

塚越:そうですね。僕はテレビゲームもまったく否定していませんし、むしろ原っぱ大学に来る子たちにはゲーム好きがすごく多いです。子どもがなぜゲームにハマるかというと、自分で決めて行動して、成果があるってことなんじゃないかと思うんですね。子どもにとって、現実世界でそれを実行できる場が少なすぎるんです。そして、自然遊びにはそれがある。

今のゲームはプレイヤーが自由に動き回れるオープンワールドのものが増えています。ゲーム好きの子が森林に来ると、自分でフィールドを開拓していくゲーム『Minecraft』のリアル版だ!と興奮してハマりますよ。

——ゲームと自然遊びって対比させがちですけど、楽しさの根源にそんな共通点があったとは。

塚越:線を引いているのは大人で、子供にとっては同じものなんじゃないでしょうか。もちろん体を動かすのも大事ですが、それよりも、自分で決めてワクワクして、失敗も成功も自分のものとして受け取ること。それが遊びから得られる、一番大切なものだと僕は思っています。

——「遊び」って奥が深い…!!

塚越:あとは、自然は“コントロールできない”というのも重要です。全てがコントロールされているなかで物事が進められるのは、都市生活の幻想だと思うんですね。自分の手ではどうすることもできないような自然の不確定さや不安定さは、教室や会議室、ゲームの中ではやっぱり得られないこと。焚き火をしたいのに、雨が降ることも風が吹いて危険なときもある。そこで自分自身を適応させて試行錯誤していく過程こそが遊びの面白さなんじゃないかなって。生きるって本来そういうことだよなと思うんです。

みうらの森林のような僕らが遊んでいる都市近郊に存在する自然は、割と簡単にその状態になれることが強みですよね。クマが出るなどの究極のリスクは少ないなかで、自然の不確定さを体感できる。とてもちょうどいい環境だなと思います。


武装している大人にこそ、遊びを

——2024年10月からみうらの森林で開始した「森林共創パートナー事業」をはじめ、大人向けのプログラムについても伺いたいと思います。子どもに比べて、「無目的に遊ぶ」ことに慣れていない大人に向けては、どのようなコミュニケーションを取っていますか?

塚越:おっしゃるとおり、大人が無目的で遊ぶのは難しい。なので、大人と遊ぶときは目的を持ちます。「里山を再生させよう」とか「畑を作ろう」といったビジョンをみんなで描いて目的に向かっていくことになりますね。ただ、その達成圧力をものすごく弱める。目的は持つけれど、そこまで行かなくても大丈夫だというゆるさを持つことですね。失敗を許容しながら、プロセス自体を楽しむ方向に持っていきます。

——目的が達成できなくても、大人はちゃんと許容できますか?

塚越:その辺りが僕らの腕の見せ所で、小さな目的は達成するようにコントロールします。小さくとも「できた!」があると、その日は達成感を持って帰れる。そうすると、もっとやってみたくなる。それが大人の遊び心を引き出すコツですかね。

あと、大人の場合は肉体的な仕事を渡すのもいいきっかけになりますね。草刈機やノコギリにはみんな夢中になりますし、薪割りでどんどん薪が積まれていくのは、ものすごい喜びがあるんですよ。「俺が割ったの!このぶっといやつ!」と嬉しくなるんです。

——大人にも思いきり遊んでもらうことで、どんな変化があるといいなと思いますか?

塚越:大人になると、社会のなかでの肩書きや役割でいつの間にか自分が武装されてしまうじゃないですか。そうすると自分自身の「楽しい!」「うわー気持ちいい!」「疲れたなー」みたいな感情のセンサーがどんどん鈍っていく気がするんです。遊びは、それを取り戻していくことだと思うんですよね。

この話で思い出すのが、京急のみなさんと初めて一緒に「みうらの森林」に入ったときのこと。広葉樹だらけの森を見て、僕はテンションが上がってしまったんですよね。京急のみなさんはスーツだったのに、僕が「行きましょうよ!」とお誘いしてそのまま奥に入っていって。

——道なき道を進みましたよね。慣れていないので急斜面を滑り落ちちゃうメンバーもいたり(笑)

塚越:そうそう(笑)。でも、みんな「楽しい〜!」って瞳孔が開いちゃってたんですよね。その表情を見たとき、僕もすごく嬉しくなったんです。瞳孔が開くほどの自分自身の欲求が見えてこそ、会社でもいい組織ができると思うし、ワクワクするイノベーションも起きるんじゃないかなと、「大人が遊ぶ」ことの可能性を感じました。

——大人が遊ぶことで「童心に帰る」といったりしますが、それは自分の欲求に素直になれるという意味でもあったんだなと思いました。自然にはそういう素直な欲求を引き出す力があるのかもしれませんね。

——塚越さんご自身、都会の生活や会社員から原っぱ大学の活動をされるようになって、今、自身の人生はどういうふうに見えているんでしょうか?

塚越:あのまま働き続けていたらどうなっていたかはわかりませんが、個人的には「でかした!」と自分を褒めたい気持ちです。それはなぜかと考えると、遊びと同じで「自分で決めて行動する」ことができているからなのかなと思います。失敗することも、もうダメだと思うこともあるけれど、そういうことも含めて自分に責任がもてている感覚。うん、生きてる、って感覚があるんですよね。

今回の取材は、原っぱ大学さんの拠点の一つである逗子の森で。途中、小雨が降ってタープをかけたり、焚き火をするのにみんなで小枝をかき集めたりしましたが、それだけでワクワクするような時間でした。

組織の中で働くなかで、「自分で決めて、自分で行動する」って実はなかなか難しいことですよね。だけど、「遊び」のなかでは失敗も許容されるし、自然と感情が開放されて欲求に素直になれる。子どもたちの発育や成長の助けとなるのはもちろんですが、大人が森や自然の中で遊ぶことには、単なる遊び以上の意味がありそうだなと感じるお話でした。

枝を削って焚き火で焼くマシュマロ、美味しかった…!