村上
夜の帳が降りると、古びたマンションの管理人である村上は、その胸の奥で重苦しい不安を感じずにはいられなかった。このマンションは昭和の名残を残す、かつての高級住宅であったが、今では壁の塗装は剥がれ、エレベーターは時折妙な音を立てて動かなくなる始末だった。入居者たちからの小言や苦情は日増しに増えており、村上は日夜、些細なことに追われる日々を過ごしていた。
ある夜、村上は管理室にひっそりと座り、ふとガラス越しに空を見上げた。月が青白く輝き、どこか冷ややかで物寂しい光を放っている。思えば彼がここに就いたのは、若かりし頃の夢を捨てざるを得なくなったときだった。家庭を持つという現実が、文学の夢をも潰してしまったのだ。今では、この四角い建物が彼の唯一の世界であり、彼の人生そのもののようにも思えた。
それでも、住人のために精一杯働くことは村上の誇りでもあった。しかし、ある日、そんな彼の誠意に冷や水を浴びせるような事件が起きる。二階の住人から「あの管理人は信頼できない」と管理組合に訴えがあったのだという。管理人としての彼の在り方を疑われることで、村上は己の存在が否定されるような喪失感を覚えた。住人の一人ひとりが皆、自分を何か見えない壁の向こうから睨みつけているような錯覚にとらわれ、彼の心は次第に蝕まれていった。
ある晩、村上は管理室を出て、無人の廊下を歩き出した。どの部屋の扉も閉ざされ、静まり返った空間に、彼の足音だけが響く。彼は次第に苦しくなり、心臓が早鐘を打つ。いつしか彼はエレベーターの前に立っていた。ドアは閉まっているが、彼はまるで呼ばれるようにそのボタンに手を伸ばし、そっと押した。
エレベーターの扉が開く。だが、そこにはいつもの見慣れた空間ではなく、どこか異界めいた、薄暗く底知れぬ深淵が広がっていた。村上は一歩、足を踏み入れた。誰に知られることもなく、彼は音もなく闇の中に消えた。
翌朝、村上の姿はどこにもなかった。住人たちは彼の行方を怪しんだが、そのうちに忘れ去られていった。古びたマンションはまた新しい管理人を迎え、何事もなかったかのように日常を続けた。しかし、夜になるとエレベーターの奥から、かすかな足音が響いてくるのだという。それは、村上の幻影がこの建物に取り憑いている証であり、誰にも届かぬ声でこの場所の管理を続けているかのようだった。