
書評「ウイグルの民話 動物譚」(鉱脈社)ムカイダイス・河合直美共訳 (上)
ウイグル民話の世界
三浦小太郎(評論家)
日本在住のウイグル人女性で、ウイグルの人権問題についてもいくつもの著作があるムカイダイス女史が、河合直美氏との共訳で、2020年に翻訳。出版したのが「ウイグルの民話 動物譚」(鉱脈社)である。残酷かつ現実的な話、そして愉快なユーモアまで、ウイグル民話の幅広い世界が紹介されている。そして、日本神話やグリム童話と共通するテーマが描かれているのだが、物語の構造は共通していても、登場人物の性格やその世界観が本質的なところで全く異なっており、これまで知らなかった中央アジアの物語世界を知るためにもぜひ紹介させていただきたい。
「鈴の靴を履いた山羊」と「狼と7匹の子ヤギ」
誰でも知っているグリム童話に「狼と7匹の子山羊」がある。今更紹介の楊もないだろうが、お母さん山羊が、子山羊たちに狼の恐ろしさを語り、自分が留守の間は決して誰も家には入れない様に注意するが、ずるがしこい狼は声色を変えたり前足に白い粉をかけたりして山羊に化け、子山羊たちはとうとう家のドアを開けてしまう。たちまち子山羊たちは、時計の中に隠れていた一匹を除いて狼に飲み込まれてしまうが、帰ってきたお母さん山羊は、満腹で眠りこけている狼の腹を裂いて子山羊を救い出し、代わりに石を詰めておく。目覚めたオオカミは水を飲もうとして、医師の重さでおぼれ死んでしまう、というストーリーだ。
ウイグル民話「鈴の靴を履いた山羊」では、3匹の子山羊(メンギュル、シェンギュル、エンギュルという名前勝がついている)のうち二匹を狼に飲み込まれるまではほぼ同じストーリーだ。しかしその後、グリムとは異なり、お母さん山羊は直接狼の家まで戦いに行く。屋根に上った山羊はそこで飛び跳ね、気づいた狼に呼びかける。
「私は山羊だ。白い足、足には鈴、地上では4本の脚だ。角もキラキラしている。誰がメンギュルちゃんを食べた。誰がシェンギュルちゃんを食べた。誰かが私と闘うなら、倒してやる。」
狼も負けじと答える。
「私はするどい牙の狼だ。山羊など失せろ。私はシェンギュルちゃんを食べた。私はメンギュルちゃんを食べた。お前と闘う。地上で戦う。倒してやる。」
決闘の前に、山羊は牛乳屋に行き、自分の乳を搾ってチーズとバターを作ってもらう。それをもって研師の所に行き、チーズとバターを渡して、その代わりに角を鋭く研がせ、さらに槍を角に取り付けてもらう。狼も床屋に行って、その牙を鋭く研いでもらおうとするが(当時、床屋は医療を兼ねていた)その代金を払わずにごまかそうとするので、床屋はこっそり狼の歯を抜いて柔らかい綿を詰めてしまう。狼の牙は効かず、山羊の角と槍が狼を引き裂いて、飲み込まれていた子山羊たちは救い出される。
ここにはグリムのような童話としての洗練はない。しかし、戦う戦士同士の荒々しい姿と、契約を護るものと騙そうとするものの正義、不正義が明確に描かれている。これは動物民話の形をとりつつ、遊牧民の激しい部族間の対決、研師や床屋、つまり武器や医療に携わる技術者たちのプライドが交錯する物語だ。このような厳しい世界観は本書に収められた民話全体を覆っている。
「ねずの木」と「小指」カニバリズムの恐怖
一時期、「本当は恐ろしいグリム童話」とか、グリム童話は初版本が最も残酷な表現が多い、といった翻訳書や紹介書がブームになった。しかし、単純に読み物として考えるなら、グリム兄弟の弟、ウィルヘルム・グリムが大幅に文章に手を入れた最終版のほうが読んでいて面白いし、そこでも残酷表現がなくなっているわけではない。そしてグリム童話の中でも最も残酷なものの一つが「ねずの木」であり、これと共通の構図を持つのがウイグル民話「小指」である。
「ねずの木」のストーリーは、継母が、先妻の残した息子を憎み、しかも自分が生んだ娘がその兄と仲が良いことにも憎悪を掻き立てられて、ついに息子を殺害してしまう。しかも、息子の首を一度は切り離して、それを糸でつなぎ、娘に「返事をしなければ兄の頭をはたいておやり」と教える。おやつのリンゴを分けに行っても黙ったままの兄の頭をはたくと、その頭が転がり落ち、妹は自分が兄を殺したのかと思い込んでしまい、母親は、このことは誰にも言うなと脅す。
帰ってきた夫には、息子は親戚の所にしばらく行ったと偽り、息子をシチューにして一家で食べてしまう。しかし、妹は泣きながら兄の骨を絹のハンカチに包んで、兄の本当の母親が愛したねずの木の根元に葬る。すると兄は鳥に生まれ変わって母親の悪事を歌って世界に伝え、最後には母親は復讐される、というものだ。このグリム版では、鳥はこのように歌う。
「僕のかあさん、僕を殺した、僕の父さん、僕を食べた、僕の妹、マルリンヒェン、僕の骨を全部集め、絹のハンカチに包み、ビャクシンの木の下に置いた、キーウィット、キーウィット、僕はなんてきれいな鳥だろう」
基本的にはウイグル民話「小指」も同じだが、まず、先妻は二人の娘を残して亡くなり、継母はつわりに苦しんだ時、「下の娘を食べさせてくれ」と懇願し、夫はそれに説得されてしまう。帰ってきた姉は、鍋の中で煮られていた妹を見ると、悲しんでその小指を取り出し、綿に包んでそっと隠すが、その小指は雀になって飛び立ち「ピイピイピイ、私は自分の父親に殺された。継母に食べられた。大事な優しい姉さんが私の命を守ってくれた」と鳴く。
そして雀は王様の果樹園にとまり、そこでは「私は自分の父親に殺された。継母に食べられた。大事な優しい姉さんが私の命を守ってくれた。王の街には正義はなかった」と鳴く。
王様は、この雀をとらえて食べてしまうが、雀はなおも王様のおなかの中で鳴き続ける。王様は薬を飲んで雀を吐き出そうとし、部下に、雀が自分の口から出たらすぐ切り殺すように刀をもって待ち構えさせるが、雀は口から素早く飛び出したので、あわてた部下は王様の首を切り落としてしまう。
この後、雀は継母にも復讐するが、グリムでは復讐ののち鳥は少年に変身して蘇るのだけれど、ウイグル民話では継母が死んだところで話は終わっている。むしろ印象に残るのは、継母の残酷さから、物語の主題が国王を倒す物語に変貌しているところだ。この背後に、オリジナルの民話が中国共産党体制下で独自の「革命理論」が付記されたのか、それとも本来の民話がこのような抵抗精神を秘めていたのか、私には現段階ではいずれとも断定しがたい。しかし、グリム童話がカニバリズムとエゴイズム、また母親という女性原理がすべてを飲み込んでしまう世界の恐怖を描いているのに対し、ウイグルの民話が、同じテーマを扱いつつ、ある種の社会批判、権力批判に至っているのは興味深い相違点である。(続く)
いいなと思ったら応援しよう!
