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「燃えよ剣」、やはりこれが司馬遼太郎作品では一番好きかな。映画もなかなか悪くなかった。

司馬遼太郎は私は高校時代から30代くらいまで読みふけった時期がありました。その後は何となく遠ざかりましたが、「燃えよ剣」は最も愛読した作品の一つで、今も本棚に並んでおります。私は司馬の作品では「峠」と「燃えよ剣」「竜馬がゆく」はやはり三大傑作と思っています。後「草原の記」は、独特の魅力のある一冊で、モンゴル現代史の悲劇を学ぶ上での最も優れた入門書かと。

「燃えよ剣」の魅力は、これ前にも書いたかもしれませんが、新選組、特に土方、近藤、沖田らを「可愛い不良青年」として描いたこと。本当の新選組ってもっとドロドロした陰惨な集団だったかもしれない(何せ、内ゲバと粛清を繰り返していたわけで)のですが、司馬の描く新選組ってとにかく、残酷な斬りあいばっかりしてるんですけど、どこか憎めない、かわいい集団として描かれてる。

武士に憧れた田舎の青年たちが、たまたま時代の波に乗って京都に赴き、そこで不良青年がいつの間にか出世してしまう。そして「もう俺たちはきちんとした侍、身分高きものなのだ、国政にもかかわり天下を動かさねば」と勘違いする近藤勇と、永遠の不良青年で「俺は自分の剣と、昔からの仲間のつながり以外信じねえし、インテリの政治論なんか興味ねえよ」という土方歳三が「そうだよなあ、どっちもわかるよなあ」と、双方に共感できるように描き分けられていました。

そこで、映画「燃えよ剣」も、それほど期待はしなかったにせよ、あの名作がスクリーンで繰り広げられればとりあえず楽しかろう、と思って見に行きました。映画でも、「不良少年の友情劇」としての新撰組像は結構うまく表現されていて、土方役の岡田准一も好演でしたけど、近藤勇を演じる鈴木亮平、沖田総司を演じた山田涼介が素晴らしい。鈴木は、独特の貫禄はあるけど、精神的にはそれに追いつかず、褒められるとのぼせるけど、苦境に陥ると気弱になる性格を見事に演じてましたし、山田はいわゆる沖田のイメージにぴったりでした。表題が「BARAGAKI」というのはなかなか言い得て妙で、彼らが最初から最後まで、本質的には不良青年のままだったことを象徴していましたし。冒頭で他道場の若者と衝突するときと、ラストで土方が官軍に突撃するとき、いずれもお国訛りになるのも効果的でした。

あと松平容保を演じた尾上右近が、それほど出番はないけど印象的でした。慶喜らに利用されて苦悩しつつ、最後まで会津の意地を通そうとする姿は、この人で松平容保の映画撮ってほしいな、とも思わせました。ただ、正直、残念だった点もいくつか。細かいこと言うな、と言われるかもしれませんけど、土方が過去を回想するとき、西暦でしゃべったりは普通しないんじゃないでしょうかね・・・せめて年号で言って、通訳が直すとか、そんな芸があってもよかったのでは。

それと、原作でもとても印象的なヒロイン、「雪」を柴咲コウが演じてまして、彼女が悪いわけじゃないんですが、原作では、徹底した不良青年土方を、母性的に包み込むとても包容力があるヒロイン像なのに、この映画だと、妙に「自立した近代女性」みたいに描かれていて、そこはちょっと私の期待とは異なりました。ついでに言いますが、「燃えよ剣」の原作、最後の1ページで「雪」のことが語られる場面、これは司馬遼太郎が書いた最も美しいラストシーンです。他のページは忘れても、このラストは忘れられません。(「雪」が司馬の造り上げた架空のヒロインだったと知ったときは20代の私は衝撃を受けました、それくらい好きなヒロインだったんだなあ)

まあ、「関ケ原」のような「あらすじ映画」にはなっていないと思うし、私は繰り返しますが楽しんでみることができました。後、婦人警官を主人公にした「ハコヅメ」という漫画がありますが、そこで漫画には司馬遼太郎の大ファンの婦人警官が出てきます。そして、警察としての努力も苦労も報われることが少ない毎日に、同僚が空しくないかと同情するシーンがあります。すると彼女は「『燃えよ剣』が劇場公開される、それ以外に生きていく理由などいりません」「鳥羽伏見の戦いに比べたら、私の苦労なんてささやかだから」とさわやかな瞳で答えるシーンがあり、これは実に感動的でした(相手の警察も「スケールでかっ!」と感動します)。人間、次の名作映画、次の一枚のCD,次の一冊の本を読むこと、それだけで人生は充実できるのだな。

で、映画を見終わった後「燃えよ剣」再読しますと、昔読んだときは全然気に留めなかった文章が、今回とても印象的に感じました。池田屋の変の際集まっていた志士たちについて、沖田総司が語る言葉です。

「京の市中の各所に火をかけ、数十人駆り集めの浪人で御所に乱入して禁裡様を盗み出し、長州へ連れて行って討幕の義軍を上げようというんでしょう?大体、できることじゃないですよ。そんな途方もないことを考えるというのが、そもそも、ふしぎなあたまをもっている。土方さん、本当は(中略)狂人じゃないですか。」

すると、土方は答えます。「正気だろう。血気の人間が集まって一つの空想を何百日も議論しあっていると、それが空想でなくなって、討幕なんぞ、今日にも明日にもできあがる気になってくるものだ」「つまり、狂人になるのでしょう。集団的に。妙なものだな。」「妙なものだ。が、集団が狂人の相をおびてくると、何をしでかすかわからない。」(燃えよ剣、上巻より)

「燃えよ剣」が連載されたのは1962年から64年。安保闘争が1960年で、それ以後、60年代後半から新左翼学生運動は様々な展開を遂げます。司馬が特に学生運動に関心を持っていたとは思いませんが、ある意味、これは政治運動が陥りがちな精神状態(政治運動だけではないでしょうが)を予言していたともいえるでしょう。連合赤軍事件とかも、いや、もしかしたらオウム真理教などの終末思想も、ここでの土方の言葉と無縁ではない気がします。もし「保守」という言葉を使うのなら、それはこの集団の力学に常に警戒し続ける人たちのことを言うのでしょうね。私も正直、「正気のつもりの狂気」「集団の力学がもたらす幻想」に陥りやすい人間なので、この土方の言葉はほんと胸に刺さります。

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三浦小太郎
勿論読んでくださるだけでありがたいのですが、できれば応援お願いします