シェア
2008年5月10日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。 4月30日、エベレストで”高度順化〟をするため標高6000㍍の第1キャンプへ登っていたとき、ベースキャプで通信を担当する兄の雄大から連絡が入った。「子供が生まれた!」。日本で生まれた僕の最初の子供は、男だった。 父の雄一郎とベースキャンプまで引き返す4時間、自分自身が父親になったことが夢のように感じられた。僕にとっての三浦雄一郎とは、ずっと、冒険における相棒であり、ライバルだった。しかし自分が親になってみた今、
2008年4月26日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。 エベレストのベースキャプに入る手前、標高4300㍍のディンボチェという村でひどい風邪にかかってしまった。酸素の薄い高所での風邪は治りが遅い。これからさらに高度をあげようとすれば、なおさらだ。 風邪に耐えつつ、高い標高に順応しようとすれば体には大きな負担がかかる。風邪になったら、まず治してから上へ上るのが常道だ。僕は本隊と分かれてディンボチェに残ることにした。 翌日、みんなから1日遅れて次の村へ向かう。シェル
2008年4月19日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。 ヒマラヤの玄関口・ルクラからエベレストのベースキャンプに至る約60キロの山道を「エベレスト街道」という。この街道にナムチェという町がある。ネパール側からエベレスト登山を行うことに決めた僕達はここに数日間滞在した。 ナムチェは標高3440㍍の山間にたたずみ、急斜面の谷間に建物が並ぶ。とにかく坂が多い。よくこんなところに町が出来たものだと感心する。「シェルパ(ヒマラヤの現地ガイド)の里」として知られるが、チベットと