夢から覚めたので、社畜からの脱却が急募。働き方改革をしていこうと誓った話。
この記事は2020年12月の記事です。
公開する勇気がなく、同じくずっと下書きに入っていました。つい完璧な文章を目指してました。
あとは本音を呟いたら、自分のネガティブな気持ちに直面して気分良く思えなかったので投稿しなかった記憶があります。でも今読むとコロナが始まったばかりの当時のリアルな気持ちに共感できて面白かったので,あらためてポストします。
そして3年前の気持ちがあったから、今は違う気持ちで働いていると感じられたのも面白かったです。色々言ってますが、3年間そんなこと忘れてました笑
この一年、なんだか悶々としていた。何をやってもあまり夢中になれなかったし、仕事にも行き詰まっていた。コロナで在宅勤務が推奨され、早く帰ること、残業代を抑えることを会社から求められらることにも私は悶々としていた。
私にはたくさん仕事がある上にパソコンはデスクトップなんだから、在宅もできない。
残業しないように求められると、積極的に仕事を受けてきた自分の気持ちを否定されているようで不愉快だった。
実のところ通達と空気のみで、実際に残業を咎められたことはないのだから気にする必要はないのだが、この機会に何が心に引っかかっているのかを改めて考えてみた。
考えてみると、私は文化祭の参加資格のようなものを会社に求めていたようだ。
自分が主体的に関わらないとなんだって面白くないのは当たり前だが、関わるのにも資格が要る。バレーボールをやるには技術が必要だし、文化祭に参加するにしても,自分がやれるスキルが必要だ。コミュ力、アイデア、実際の作業力等々のスキルが必要だ。スキルもなく、不安定な人間関係にすぐ疲労してしまう私には、文化祭を楽しむのはハードルが高すぎた。
その点、会社は入社すれば自動的に(強制的に)仲間になり、みんなでプロジェクトをこなしていく。学生時代はみんな争うようにこなしていだwork(という名の遊び?集まり?)も、実際に責任の伴うworkとなった途端、(あまりにも旨みがなく)やりたい人は激減する。もちろん私もやりたくは無い。
ただ誰もがある程度はやらなければならないので、渋々参加したworkではあるが、やっているうちに評価されたり、知識が増えたり、経験を積むことで、だんだん文化祭に参加できる資格が得られてきたように思ってきた。上昇志向もこだわりもない私は目の前のwork(もしくはtask)をこなすことで満足だった。こんな私でも役に立てる場があると言うことをモチベーションに働いてきた。
ただ、今回夜一人で残業していた時にふと気がついてしまった。忙しかったのは私がどんくさいからで、みんなも忙しいと思っていたが、実は違うかもしれないと言うことに。文化祭の準備をみんなでやってると思って楽しがっていたのは私だけだったのかもと。
本当に、これは誰が悪いのか!!といえば間違いなく私であった。
自分を頑張らせるために現実を見ずに、脳内で現実を都合よく書き換え,自分を納得させていた。まるで失恋末期の症状だ。しかも自分はこんなに頑張っていると押し付けがましい彼女っぷりである。
魔法が解けてがだから来た私であるが、溶けてしまった魔法はもう一度はかからない。
そして、魔法をもう一度かける時間もない(老後は近い。)ので、今度こそ大人になって歩き出そうと思う五十路である。