祖父母と暮らす|三浦自伝②
(写真:姉&父との写真)
母より一足先に帰国した三浦(4歳)は愛知県一宮市の祖父母のもとに預けられ、それはもう可愛がられながら育つ。子供の柔らかい頭で身につけた英語は、残念ながらあっさりと忘れてしまった。
そういえば祖父母の家で姉と英語でケンカしているのを祖父が撮ったビデオがあったがどこへ行ったのだろう。あれは傑作だった。
この頃一宮の丹陽保育園、後に名古屋の星ヶ丘幼稚園に通った。
じいちゃんばあちゃんに可愛がられたとはいえ当時まだ4歳の男の子。母のいない寂しさに、毎日のように毛布でお船を作って母に会いに行く航海ごっこをしたり、空を見上げては「あの飛行機に乗ってお母ちゃま(当時母のことをそう呼んでいた)に会いに行けたらいいのに」などとつぶやいたり、祖母におっぱいを欲しがったり、涙なしには語れないエピソードが豊富にある。
当時を知る親戚が集まれば大体その話になるのだが、それを聞く度、昔の自分に共感し目頭が熱くなってしまう。意外と涙もろい三浦である。
話が前後するが祖父母に預けられた後もう一度バーモントで半年ほど過ごし、1991年3月にようやく母・姉と共に帰国し名古屋の家に戻ることになった。
星ヶ丘幼稚園から風の子幼児園という超のびのびと遊ばせてくれる幼児園に移り、裏山で走り回ったりおもちゃやおやつを自分で作ったり、たくさん遊んでやんちゃをした。関係ないがこの頃裏山で生まれて初めてハリガネムシに出会い、その異様な姿に衝撃を受ける。
風の子幼児園では鶏を飼ったりパンを焼いたりキャンプをしたり、本当にいろいろな体験をして楽しかった記憶がある。
今は名古屋市天白区に移転したが当時は千種区の名古屋大学の裏手にあり、名大附属中学・高校の野球部の練習の音や吹奏楽の音が良く聞こえていた。後にそこに入学することになろうとは当時の三浦は知る由もなかった。
(つづく)
※三浦編集長 Vol.2(2014年8月発行)より転載