南アフリカ篇|三浦自伝④
(写真:友人たちと遊ぶ三浦=左から二人目)
1996年11月16日、三浦(10歳)はクアラルンプール経由ヨハネスブルグ行きの飛行機に乗った。
その日の早朝、登校途中のクラスメイト朝倉君にお別れを言いに行ったのを思い出す。他に渡すものがなかったのか、しょうもない旅行会社のシールをあげたのだった。
母はあるNGOの南アフリカ事務所開設に伴い所長として一足先に南アに赴いていた。空港で母と再会して乗ったタクシーが平気で時速160キロも出すので、早速カルチャーショックを受ける。
ヨハネスブルグの隣にある首都プレトリア市内に家はあった。
すぐにプレトリア郊外にある現地のシュタイナー学校Max Stibbe Schoolに入学したが、この時初めて、学校が家から遠く送り迎えが難しいからと、寮に入ることを知らされたのだった。三浦史上最大の困難の幕開けだった。
言葉の分からない環境で肉親から離れての寮生活は辛かった。
ホームシック、文化の違い、汚い寮、不味い食事、アジア人への好奇の目にさらされながらの生活など、10歳の少年には耐えきれず毎日ただ泣いていた。
当時の母との交換日記があるのだが、毎日冒頭に「悲しい度○%・楽しい度○%」と書いてあってその時々の状態が細かに見て取れる。
その日記は今見ても切なく涙が出そうになるが、きっと母も平気ではなかっただろう。
しかし時が経つにつれて段々と悲しい度が減り楽しい度が増え、しまいには日記もあまり書かなくなっていくところは自分の成長を見るようで嬉しい。
自分が泣かなくなった日のことは今でも昨日のことのように思い出せる。
当初は姉が少し離れた中等部に通っていたので放課後には泣きつくことができたが、入学後しばらくして、姉が用事で数か月間帰国することになった。
甘える先がなくなったその日から、パタリと泣かなくなった。
一年が経つ頃には言葉も大体分かり、よく話しよく遊ぶようにもなり、不味いメシの中にも美味しさを見つけられるようにまでなった。
(つづく)
※三浦編集長 Vol.4(2015年2月発行)より転載