ぼそぼそ声を上げ、その声を拾いあげること
ネットの発達によって得られた有意義なことのひとつに、人々が自分の考えていることや日常のできごとを手軽に発信できるようになったことがある。
そのおかげで、普通に生活していたのでは巡り合わないような階層の人たちの存在を知り、その生き方や考えをつぶさに観察することができるようになった。
フェイスブックやインスタグラムなどいくつか発信、交流サービスを利用しているが、なかでもツイッターは風俗嬢である自分を全面に出して発信していたため、普通の生活ではまず出会うことのない人たちの存在を知ることができた。
ツイッターで出会った人たちは、最初は同業者である風俗嬢や風俗店関係者、AV関係者や官能小説家など同じくエロ業界に属する人たちが多かったが、そのうち貧困層やその支援者、フェミニストなど、今の日本の在り方に苦しめられ、苦言を呈する人たちが多くなってきた。
『ぼそぼそ声のフェミニズム』の筆者、苦言を栗田隆子さんそのうちのひとりである。
学校生活に馴染めず不登校になり、大学院を中退後、非常勤や派遣で働きつつ、女性の貧困問題や労働問題を訴える活動を行ってきた。 その10年に渡る活動のなかで、疑問を感じ、かそぼいながらも声を上げてきた軌跡がこの本にまとまっている。
私自身は結婚し、仕事をしなくても贅沢をしなければ、家事や育児をしながら、悠々自適な生活を遅れる立場にいるし、知り合いには、仕事と結婚生活を両立し、キャリアも子供のお受験アシストも望み通りに行えている人もいる。
その一方、どんなに女性の地位向上や労働環境改善のために女性の能力向上のためのキャリア教育が推し進められても、単純労働しかできず、取り残されている人もいる。
能力や環境に恵まれた人が努力した分、さらに豊かに幸せになれるのは素晴らしいが、努力したくてもできない人、努力することに意味を見いだせない人たちもいる。
「努力しないこと」や「愚かであること」が非難されることに栗田さんは疑問を呈し、「愚かなまま」「弱いまま」でも受け止めることを提案する。
私自身はできる限りの努力し、失敗し結果が出ないこともあるが、大抵は努力した成果をきちんと受けとることができている。そのことに自分で満足すればいいことであって「努力してない(ように見える)人」に対してとやかくいう必要はないと思っている。
他人からとやかく言われなくても、本人が1番辛い思いをしているのだろうし、努力した成果を自分で感じ満足できる人は、努力できない人には味わえない喜びを得られているのだから、それだけて十分ではないか。
精一杯がんばってようやく普通の生活が維持できるのではなく、普通の人が普通に生きられる社会にどうして今の日本がなれないのだろうか。
今、コロナによる自粛で、経済は萎縮し、明日の生活にも困る人が出てきた。
コロナは富める人も貧しい人も平等に襲う、コロナによって格差が縮まると希望を見いだす人もいるが、コロナで仕事ができなくなっても基本給は貰える正社員と、収入も住む場所も失ってしまう人もいる。
給付金を誰にいくら支給するか、日本政府の方針は二転三転し、ようやく決まった「一律10万円」もいつ支給されるか検討がつかない。
今の現象はこれまで弱い人の声が掻き消され、ないものとされてきたこと、チャンスはいくらでもあったのに努力してこなかったからしかたがないと放置していた結果にほかならない。
今さら過去に戻ることはできない。でも、今からでも「ぼそぼそ声」でもあげることが大切だし、余裕のある人たちはその声を大きなものに変えていく責任があると思う。
同じ時代、同じ国で生きている者なんだから。、