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多様性を認めない教育と社会システム

ブログでも紹介した、メッシーの岩田健太郎医師へのインタビュー記事では、文部科学省の学習指導要領に基づいて授業が行われることへの危惧も述べられておられる。

生殖器の解剖図ばかり見せても意味がない。感染症医が語る「日本の性教育に決定的に足りないもの」

「学校教育の現場では、文部科学省の学習指導要領に基づいて授業が行われています。マニュアルをもらってマニュアルどおり教えているのですから、教師の側にまず葛藤がない。性は多様ですから教え方がひとつでは無理があるんです。」

「個々の学校、ひとりひとりの教師ごとに『自分たちが目の前の生徒に何を教えるべきなのか』『どうしてそれを教えなければならないのか』を葛藤する必要があります。教える側にそれがなく、ただ答えを押し付けるだけでは、子どもたちの考える力も主体性も育つはずがありませんからね」

本当にその通りだとは思うが、一人の教師がひとクラス30人前後の生徒、ひとりひとりの個性を理解し、それぞれにあった指導をするのは不可能だと思う。

いや、そう思うのは私が「他人とは違う」こ ところの多い子供で、それを理解しなかったときにはいじめられ、自分が「いじめられるのは人とは違うところがあるから 」と気がつき、人と合わせることを覚えた経験があるからで、多くの人は「同じ世代の人たちと同じ価値観を持っている」ものなのだろうか?

それとも、もっと早く「自分の個性を発揮するより他人と合わせたほうが楽」と気がついているのだろうか?

どちらかは分からないが、日本という国のシステムは教育も福祉も「国民ひとりひとりの個性に合わせる」ことよりも「多くの人か同じような価値観を持ち、同じような人生を送る」ことを前提として、設計されているのではないだろうか?

そして、自分の個性を殺し、その世界で望まれる生き方をした方が楽だとは思うが、やはり私は自分の個性や感性を大切にしたいし、自分のが子供にもそう願う。

とくに、学校でトラブルがあったと思われる子供の自殺のニュースを聞くたびに、そう思うのである。

昨日は仕事がなかったので、有料部分はありません。

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