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「お前ら、全員助けられろ」と叫ぶ筆者の救いを求めた奮闘記

発達障害という言葉を初めて知ったのはいつ頃だっただろうか?

NHKの「あさイチ」などで特集が行われるようになる少し前、発達障害に関する記事をよく見掛けるようになったし、自身がそうであることを告白するツイートもよく見るようになった。

その頃よく目にしたライターさんが本を出版された。

自身も発達障害で引きこもり生活ののち、結婚しライターとして活躍できるようになるまでの格闘の日々が書かれている。

まず驚いたのは、なんとかしてこの状況を打破したいという本人の強い意思だ。

民間、公的問わず、様々な支援団体や医療関係者にコンテストを取り、その時の自分に必要な助けを求める。

その多くはネットによって探しだしたもので、そのコツも本のなかで紹介されているが、改めてインターネットが私たちにもたらしてくれたものの大きさを感じた。

筆者は彼女が苦しむ要因であった「ヤバい家族」から救いだしてくれる最大の功労者でもある結婚相手ともネットで知り合ったようだが、もっとたくさんの出会いがネットによって得られたようで、普通の人とは違うところがあり、学校や地域社会ではなかなか心を分かち合う仲間に出会えない人にとって、住んでいる場所を限定されることなく多くの人と知り合えるきっかけとしてネットほど有能なものはない。

単なる時間潰しのツールとして、あるいはもっとひどく他人を中傷するのにも使われがちなネットだが、もっと、自分にプラスになる使い方を心掛けたいと思った。

それにしても、筆者のなんとかしてこの状況を打破したいと思うパワーはどこから来たものであろうか。

発達障害の自閉スペクトラム障害(ASD)の診断がおりているそうであるが、筆者の生きづらさはより大きな原因は家庭環境にあり、家族とうまく距離を取ることで本来の自分らしさを取り戻せ、トラウマ治療などが功を奏したとはいえ、いつまでも愚痴を吐きこのままでいいと言いながら、もっと悪い方向に行ってしまう人たちの違いはなんであろうか。

私自身も、自分ののよくない状況を自分で(それこそネットを駆使して)状打破してきた「できるほう」なので、「何もしないで愚痴ばかり吐いている人たち」のつぶやきに苛立ちを覚えることも多い。

解説のソーシャルワーカーさんが、自分から支援者へのアプローチできる「『パワフルな当事者への依存』に気付き、自ら出会いに行くモードへとシフトチェンジ」について語っているのを後押ししたい気持ちになる。

私たちは「立派であること」や「まともである」「他人に迷惑を掛けない」ことを教育の場で叩き込まされながら、成長してきたが、そんな人間なんて存在しない。

何か足りないものがある人に与えられるのは、非難ではなく「助け」である。

「お前ら、全員助けられろ。助けられてしかるべきだ」その筆者の声が、助けられるべき人たちや助けられる力をもった人たちに響くことを願ってやまない。

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