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「極光ロミオとジュリエット」の感想

演劇を観に行く、観劇と言い換えても良いが、それはまるでジェントルマンの行いだ。他所行きを着て埃を払い、ポマードを付けて髪を固めて、靴を磨いてコツコツ鳴らし、劇場に赴く必要がある。そのような覚悟が求められた。
上記のように書くのは、あまり演劇を観に行ったことがないからであって、つまり私にとってよくよく縁遠い、非日常のことだったということが言いたい。
ある先輩がいて、その先輩が出演するというのでこういう運びとなった。大学生の時に1番お世話になった先輩なのだ。でなければ、小心者の小市民には中々敷居が高いように思われた。
山高帽もステッキも無かったけれど、辛うじてオペラグラス代りの5倍の野外双眼鏡はカバンに忍ばせておいた。
長浜までの道のりは長い。守山を過ぎると旅情がある。近江の湖水の脇を行き、米原の切り離しに恐々とする。少しだけ早く着いたから甘い長浜ラーメンで小腹を満たして、長浜文化芸術会館へいざ向かう。

そして何故か、舞台の上に客席がある。
そもそも受付でチケットを見せている時にドアの隙間から垣間見たところでは、劇場の暗闇がブルーとピンクに照らされている。それで、ドアをくぐる時、案内されたのだ。舞台上の客席に座ってくださいと。客席は3段だったかと思う。階段状に椅子が配置されている。
1番前に座ってしまったのだ。決して間違いではない。先輩の公演であって、また演劇自体もよくよく観たかったのだから然るべき陣取りであろう。しかし。
ドギマギしてしまう。小心者ゆえ。ともかくも、これで野外双眼鏡は不要であることが分かったわけだけれど。幕が上がる、だなんて言うけれども、今や私も幕の内。
「水星×今夜はブギー・バック」が流れている。素敵だ。いつも聞いてる。今夜はブギー・バックは数々のバージョンがあるけれど、水星マッシュアップのこれは出色である。慣れ親しんだ音楽に頼りつつ、そんなことを考えながらも未だ心が定まらない。
この間落語を観に行った時なんかは、壇上の噺家と目が合う度に愛想笑いをしていたと言うのに。一体どんな顔で観るべきか。

そうこうしていると、劇が始まった。お兄さんが出てきて前口上を話す。自然体で滑らかに我々を引き込もうとするものだった。演者が来る。目の前だ。彼らもまた口上を述べた。力強い、こちらとあちらを塗り分け引き裂く号令のような。
そこからは怒濤である。洗練されて大仰なセリフが滔々と流れ、それを集めてシーンは澱みなく巡る。我々はごく間近な客席から右へ左へ首を向け、ロミオやジュリエットを追って、そうして目から耳からその流れに呑まれる。胸に響くなどというが、エネルギーに溢れる音の振えを浴びたようだ。手一つから体全ての配置が何らかの意味を表すような繊細さ。気に満ち意味豊かな、ある種の洗礼である。

さて、つまるところ私がどんな顔をして見ているかなどは意味を持たない。壁のシミみたいなものである。私自身までもそんなことを覚えていない。
我々を引き込み振り回し連れ立って進む劇に、何らの心配はいらなかったのである。
人生は演劇とはシェイクスピアの言葉。たまには傍から観るのも悪くない。

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