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【はじめに】葛藤と、折り合えなさの、つづれおりを

突然ですがnoteをはじめてみようと思います。

はじめるに至った理由は色々です。

色々思うところはあるけれど、アウトプットの場所がない。何かをアウトプットする力がすっかり鈍ってしまっている。その鍛錬のためとして。

いま東京都の代々木のあたりに住んでいて、それなりに街に馴染めてきた。日々の生活の中で楽しいことも色々見つけるけれど、ログも残さず生きているのは勿体無い。せっかくなので良いものの思い出を残す場所として。

詳細はこれから書いていくかもしれませんが、いろいろ精神的にグレー精神的な部分を持っていて、人として弱い所があります。2022.05現在休職中、もうすぐ復職予定。「これ書いたら『いのちの電話』が自動案内されるな」みたいなことを思い悩む日もある(ボカした表現)。
そうした中でもなんとかやっていけるよう、自分なりに整理したり学んだりもしているのだけれど、なかなか誰かに素直に話したり分かち合う所がない。そもそも苦しい〜もうダメ〜を分かち合う場も中々ない。初手で理解のある彼クン彼女サンなんて早々いない。なので、そうした諸々のツラみの話もできる居場所として。あるいは、同じように迷子の人の何か気持ちの代弁やヒントになるように。

色々です。色々ですね。

色々な意味で「リハビリ」です。
なので、「とにかく気負わず」。無理して何かを作ろうとしなくてもいい。無理に誰かの為に書かなくて良い。どうでもいい話ができるほど健康的なことはない。でも悩みだって言葉を選びながらだけど書いていい。そんな感じです。
とりあえず、三日坊主にならないよう「週●回30分は時間をとって」みたいにルールを決めてやっていきたいと思っています。

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そんな色々なのですが、今なにか書くなら、と漠然と添えているテーマがあります。ここでタイトル回収。

「葛藤」と「折り合い」。

この2ワードをテーマに添えたいのには二つの理由があります。

まずはそれが私の話であるから。今まで色んなカウンセラーとお話しする機会を頂いてきましたが、「折り合い」をつけることが大事、と繰り返し言われてきました。

例として言えば、我慢をするのがヘタ。そのクセ空気を読むのもヘタで一度我慢し出すとツラいというのもヘタ。あるいは愛されたがりなのに、愛されるところまで我慢するのがヘタ。

おそらく、何かと何かの間でハッキリせず板挟みの状態が苦手なんですよね。いわゆる「葛藤」をする部分。なかなか、そういう時に「折り合い」をつけきれず、結果一方的に我慢して爆発したりして、周りを困らせる「ちょっとヤベー奴」に時たまなってしまったりする。

私がこうなってしまうのって、何かをハッキリさせなければ落ち着かない「白黒思考」だったり、完璧なもの以外は受け入れられない「完璧思考」だったりが影響していると思っています。こうしたバイアスは発達障害の人も鬱の人も抱えがちです。
からと言ってそれを言い訳にできるわけもなく、だからこそ人一倍「葛藤」しながら「折り合い」を見つけていくのが大切になってしまうのですが…

何はともあれ、「葛藤」と「折り合い」は、まず私自身の課題であります。

もう一つは社会全般の話です。とりわけインターネット。ここ5年くらい、荒れてますよね。分断ですよね。インターネット。

ある人は革新的に「もっと人々が生きやすくなるようにしよう」と言い、ある人は保守的に「今まで通りにさせろ」と言う。ある人は「実際の声を拾い上げてきた」と言い、あるい人は「ルールだから」と言う。ある人は「抑圧されている」と言い、ある人は「こんなの普通だ」「お前達だけが特別ではない」と言う。
どちらにも一定の正しさがあり、どちらも「こうありたい」とする自分の姿を守るために固執して声がデカくなっていく。いわゆるエコーチェンバーですね。

多くの人に共感してもらうために、私自身がどの話題に対してどちらが正しいと思っているかはさて置きます。
そもそも何でも二項対立にしてどっちもどっち論に持っていくのも正しくないと思いますが、でも実際にエコーチェンバーは起きていますし、苦しいですよね。

でも、私、こうしたインターネットの争いって、社会ってデカい単位の生命が、全体の価値観を変えていく流れの時の「葛藤」だと思うんです。


例えばケーキを食べたい、という本音がある。今日からダイエットをはじめた、という理性がある。相反するけど、どちらも自分の中で正しい意見じゃないですか。そこで生まれるのが「葛藤」。そしてどちらが絶対的に正しいかなんて無い。
明日が健康診断なら、ケーキを食べないかもしれない。でもどうしてもムシャクシャしたことがあって、ちょうどケーキ屋の前を通ったらケーキ買ってしまうかもしれない。ああでもギリギリ我慢できそうなら我慢しよう…状況に応じてお互いの言い分を理解しながら、都度都度状況に応じて「折り合い」がついていく。
こうした「葛藤」が常にあること自体はとても健全じゃないですか。常に意見が揺れているのは疲れてしまうのだろうし、なにかを決め打ってしまえば楽になるのだろうけれど。

社会もこの「葛藤」をやっている気がするけど、社会の「葛藤」は私の心の中の不器用さと比べてもドッコイなくらい不器用な気がする。何かを決め打って、自分は正しい、自分は潔癖だ、これは当たり前の選択だ、と言いたがりすぎている気がする。そうだよね、みんなインターネット疲れちゃうもんね。流行ってますよね、「言い切る」「割り切る」風潮。

でも、皆がその「割り切り」で楽になっていく陰で割り切った先にあったはずの問題のことを考えると何だか寂しくなる。

もうちょっと「葛藤」を続けられないだろうか。正解の出しづらい宙ぶらりんの所の問題を、敵・味方・よい・悪いをいったん決めず、ありのままの状況を受け入れながら、都度考えていく。あるいは、あらかじめ思い込んでいる「折り合い」を少しリセットして、周りを見渡し直したりステークホルダーと話し合ったりしながら、もう一度整理し直してみる。
そんな感じの繰り返しで社会全体の価値観はあっちへ行ったりこっちへ行ったり軌道修正を都度していく。「葛藤」と「折り合い」はずっと社会体のテーマでもあり、いまいまの色んな問題を見渡すためのテーマでもあると思います。

なんか色々考えちゃうね。

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…と、随分偉そうに風呂敷を広げましたが、そんなことを書くかもしれないし、書かないかもしれません。
だって、色々考え込んでしまう私にとって、リハビリ中は何より「気負わないこと」が第一での折り合いです。

悟ったようなことを一度も書かず、好きな音楽の話や、好きな代々木界隈のお店の話や、日々の泡を記録して終わってしまうかもしれない。今も「Macのキーコンフィグ慣れネェ…」と愚痴りたくて仕方ないのだけれど、そういう一文を書いて一記事が終わるかもしれない。
まあでも、それはそれで、わたしが心の底の「ツラいなあ…」「寂しいなあ…」と思う気持ちと「折り合い」を見つけていくためのプロセスです。それが誰かの何かに届けば嬉しい。誰も読まなくたっていいさ。とにかく記録していけば見えることもあるだろう。
頭の中にある言葉を額縁に飾ってみることには、きっと意味がある。

そんな感じではじめてみようと思います。
どこへ飛んでいくのかもわからない、
私と社会の、葛藤と折り合いの日々を。


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