「こうあるべき」の縛りを紐解き続けること
今朝は、ドアを開けると、湿気を含んだ生ぬるい空気が私の体を一気に包んだが、心はとりわけ清々しかった。
昨日の夜、自分が自分を縛っていたことに気づいたからだ。
そしてそれはーーやはり、自分だけの力ではなく、一緒にいる人の存在のおかげで気づけたこと。
不思議とコトは重なるもので、ひとつ縛っていたものが解けると、
『じゃぁこれは?これもそうかも』と芋づる式に?いくつかのことを考えるきっかけをもらった。
あー、またやってしまったなぁ。と思う。
何かを頑張れば頑張るほど、周りが見えなくなって、自分の「こうあるべき」に無意識に向かってしまうのは自分の悪い癖だなと思う。
気づけば何かを、誰かに対しても、決めつけている。“決めつけ”は妄想だ。自分の頭の中で勝手に作られた虚構であり、それを関わる人に押し付けてしまいがちになる。
それに気づいた今、割とショックだが気づけてよかったと、心から思う。
ここ最近で、何かを「手放す」ことは必要だと言っておきながら、(SNSなんかでも発信しちゃっていたくせに)自分自身が一番、手放せていないことに、昨晩は気づいた。自分の中にある“〇〇であるべき”は今までの人生でたくさん積み重ねられてきていて、思いの外、根深いところまで浸透している。気を抜くと、それらに飲み込まれていく。
自分が自分を許せていない。
自分を自分で縛り付けていることに気づいていない。
あ、ひとつ緩めれた、と思っても
気づかぬうちにまた「〇〇であるべきなのに」と自分を縛り付ける。
*
私は本当に一人じゃダメだとよく思う。
自分が「間違っている」という認識が持てるのは、他者と関わるからだ。
大事な仲間がいるからだ。大切な人がいるからだ。
何かをやっていく上で、その時一緒にいる誰かが、私の「こうあるべき」のねじれに、いつもいつも、気づかせてくれる。
独りよがりになってはいけないと、その度に思い知らされるのに
しばらく経つとまた傲慢になる。
人間なので、やはりまた間違うこともあるんだろう。
自分の「こうあるべき」を周りの人に知らずのうちに強いてしまって、
一緒にいる人を、悩ませてしまったり、嫌な気持ちにさせしまうこともあるかもしれない。その度に、恥ずかしくて、情けなくて、うわーダメだ!とか思ったりするけれど、そんな自分の気持ちも受け止めて、一生懸命目の前のことに頑張って、やりなおすことが、気づかせてくれた人への誠意かな、と思う。
だから、というか。
絶対に「こうあるべき」なんてないという気持ちも持っていたい。
自分の正義は、誰かの敵かもしれない。
自分の正しさは、誰かにとっては間違いかもしれない。
自分の中の、“正しさ”の基準を持つのは大事だけれど、それによって誰かを無意味に縛ってしまうことはしたくない。
一人で何かを成すのは、作業的には大変だけれど、楽だ。
進めていくことに誰の了解もいらないし、自分が思って通りに実現すればいいだけだから。
だから、誰かと何かを成すということは大変だ。
自分の価値観だけで物事を進められないし、他人の意見を受け入れないといけない。自分が「違う」と思っても、それが誰かの「正しさ」なら受け入れることも必要だ。
しかし、その大変さ以上に、得られるものの大きさは半端ない。
自分一人じゃ味わえなかった世界。
一緒にいる人が自分にくれる喜び。
そしてまた、一緒に関わった人から繋がるご縁もある。
一生懸命向き合った人との縁は、きっとまた素晴らしい縁に、繋がっていく。
自分を縛り付けるものを、ほどき続けること。
心苦しい時もあるけれど、それはきっと、人間同士が関わる中で、素敵な自分を手に入れる方法だと、あなたに伝えたい。
今日の私は、とってもいい気分だ。
読んでくれてありがとうございます。 ふと思った時に、心のままに書いています。 よかったらまた読んでください。