読書日記『私の「漱石」と「龍之介」』
本日の読書日記は、
内田 百閒『私の「漱石」と「龍之介」』の「前掛けと漱石先生」から書いてみたいと思います。
崇拝している漱石先生のする事は何でも真似したいというのが、弟子たちの気持ちであったそうで、
漱石先生は少し鼻が曲がっていて、笑うとき鼻の横に皺を寄せる。だから、笑うときに鼻の横に皺が寄るよう真似した人がいたそうです。いいですね😊笑うときの皺って、キュートですよね😊
また、小宮豊隆は漱石先生の真似をしてセピヤ色のインクを使っていたそうです。お洒落ですね😊
そうよね、真似したいよね、わたしも真似したいもん。深くうなずきながら読み進めました。
内田百閒はというと、漱石先生が前掛けを締めていたことから、 前掛けの真似をしたそうです。
百閒は商家の生まれで、子どものときに前掛けを締めていたそうなので、馴染みがあって取り入れやすかったのかもしれません。
引用します。
「家で仕事をする者に取つて、前掛けは実に調法である。(中略)真似を始めた当時から、今度空襲の火事で焼け出された迄は、家では著物を著ていたから、著物の上に締めたのだが、それから後は洋服のずぼんの前に前掛けを垂らしている。洋服と云つても外地から帰つて来た若い者の兵隊服を貰つて著ているのだが、もうぼろぼろになつて、ずぼんにはつぎが当ててある。そのつぎの境目が又ぼろぼろになりかけているけれど、前掛けのお陰で人には見えない。著物に前掛けをした当時は、著物の膝がよごれるのを防ぐ役もした。ところが敗戦後の前掛けは反対の役目になつて、ぼろ隠しである。これから先、夏になると裸で前掛けを締める。前から見れば半ずぼんの代りになると自分では思つている。変な様子がみたくなかつたら私の家へ来ない方がいい。」
文庫本にして10行の文章です。
さらっと書いてありますが、戦争中や敗戦後の大変な時代を乗り越えたことが感じられましたし、
着物から洋服のずぼんに変わっていったんだなという、衣服の変化もわかりました。
そのずぼんもぼろぼろになって、つぎはぎだらけ。ものがない時代だったから、大変だったんだろうな。読みながらいろんなことを考えました。
しかしそのあと、
「これから先、夏になると裸で前掛けを締める」とあります。なぬっ⁉️
「前から見れば半ずぼんの代りになると自分では思っている」そうです。
後ろから見たら裸です。
(←『おぼっちゃまくん』に出てくる貧ぼっちゃまみたい)
最後は、「変な様子が見たくなかったら私の家へ来ない方がいい」と結んでいる内田百閒。
…おもしろい人だ😄
さすがに「裸に前掛け」は真似しませんが、わたしも前掛け(エプロン)は真似してみようかなと思いました。新しく買おうかしら。いや確か、買い物狂時代に買ったものがあったぞ…(←ごそごそと引き出しを探す)。
そういえば、猫村さんもいつもエプロンをしています。
エプロンをすることで、漱石先生と内田百閒と猫村さんにオマージュを捧げることになるかも。なんだか嬉しくなって、エプロンをして小躍りしました。(←安心してください。服は着ています)
そんなわけで、楽しく過ごしております。お読みいただき、ありがとうございました😊