見出し画像

「終わりに向かって」(人と世界)

 私達が生きているこの世界はこれからどうなっていくのでしょうか。このまま何千年も、何万年も続いていくのでしょうか。

 人類と呼んでいる存在の始まりについては、一番正確な情報として、聖書の中に、その内容が描かれてあります。
 
 そこには最初の人が造られた経緯、最初の人から2番目の人、これは、今でいう女性であり、最初に造られた男の人の妻でしたが・・・。
 そもそも男と女と言う概念はどこからきているのでしょうか・・・。
 とにかく、その女と言う存在が、男から取り出された事。
 つまり、男が最初に造られ、次に、その男から女が取り出された、と言う内容です。

 聖書は淡々と、この事実を私達に告げています。しかし、これは本当の事なのでしょうか。現実にこのような事が有り得るのでしょうか。

 最初の人が造られた存在(創造されて存在している存在)だと言う事になると、その人を造った存在、つまり人でない、人以外の存在があると言う事になりますが、一体「何」が人を造ったのでしょう。
 最初の人は本当に、この聖書が語る通りに造られたのでしょうか。

 宇宙の存在は如何でしょう。
 人は宇宙の中に存在しています。正確には、この広大な世と呼ばれる無限にも等しい存在の中にある大宇宙、そして、その中に無数に存在している、星々の集まり、人が銀河系と呼んでいる星団の中に存在している太陽系、それも人がそう呼んでいるだけなのですが・・・。
 その太陽の周りを公転している8つの星の中のひとつである、地球と呼ばれている惑星の、地表の、僅かな地域の範囲で、ほんの数十年しか存在を許されていない人々。
 そして、その人々に「宇宙とは何か」と不思議な疑問を持ち、考える事も許されている事実。
 人は宇宙を眺めて、それを不思議な現象だと考える事が出来る存在として造られています。これまた不思議な話ですが、何故でしょう。

 その宇宙は単なる空間にしか過ぎません。
全宇宙空間にある星々の全重力がそうさせているのですが、その何もない空間の中にぽっかりと浮かんでいる惑星である地球。
 宇宙空間内における重力バランスが完全に保たれていなと、現在のように、太陽系の中で、定期航路を矛盾無く繰り替えす事は不可能。
 その動きまわっている地球と言う惑星表面の、地と呼ばれる所にへばりついて存在している、人である人間。
 そのひとりが私達ひとりひとりで、私達は、この無限にも等しい広大な空間敷地である大宇宙と言う存在の中で、まさに無に等しい存在として、なぜかこの惑星である地球の表面に生きて、生かされています。

 この世界のすべてと言える、完全な重力支配バランスが保たれている宇宙空間がなぜ存在しているのでしょう。

 その宇宙空間の存在については、聖書は言及してはいないようです。
 この地球と呼ばれる丸い物体は、その宇宙空間の中に存在していますから、天と地が造られる前にすでに宇宙空間の存在があったはずですが、聖書にはおそらくその宇宙空間の記述については何も記されていないと思います。その聖書の中の記述にも無い宇宙とは一体何なのでしょうか。

 私達にはわからない事だらけです。科学者はその基を探ろうとし、夜空を眺め電子顕微鏡を覗き込みます。
 科学者はある時、定理や法則や規則を、物質や現象の中に見つけます。そして、それを活用する事によって、便利で快適な社会を構築してきました。

 発見には発明が有り、発明には、人々の地上での生活を豊かにする便利な装置の作成があります。私達がわかる事はすべて、自分達の生活の中に浸透させ、社会生活や生活そのものを有利で便利で快適なものと変化させてきました。人類の発展でしょうか。

 ところが、私達は、快適な装置を作るために必要な、便利な定理や法則や規則が「何故そこにあるのか」誰も説明する事が出来ません。宇宙が何故あるのかについて誰も明確な解答を持ってないように、それら法則が何故そこにあるのかについても、誰も何も知らないのです。人はそれを見つけて、それを利用しているだけです。何一つ根本的理由について知っている人はいません。

 物質定理ひとつの説明もつかない私達。始まりが何処で何であるかについても理解していない私達。しかし、その私達は存在しています。これらにはどんな意味があるのでしょう。

 私達は、恐らく、何もわからないまま、終わりに向かっています。私達個人の死と言う事もそうでしょう。

 私達はある時に自分が生きている事に気づきます。自我の目覚めとでも言うのでしょうか。自分の存在を意識するようになります。一般的には、両親に育てられ、身体と精神が発達し成長します。両親や家族の言葉を知識として、感情として、思想として、自分の中に取り入れ、それで自分自身そのものを構成していきます。もちろんそれだけではありませんが、それが私達です。

 私達は基本的には独りではありませんので、多くの人達との関わり、かわす言葉によって、自分の考え方の確定を連続して行い、人格を修正したり補強したり改善したり、自分自身を、ある時には成長させ、ある時には反省させ、より性能が良いものとして成熟させて行きます。つまり成長です。

 しかし、いくら聡明になって、知識が増し加えられたとしても、私達は私達個人が終わる時については、誰もわかりませんし知れません。そもそも死ぬ意味についても理解していません。私達は何もわからないまま、生きているのです。何故生涯が終わるのか、なぜ死ぬのか、がわかりませんから何故生きるのか、についてもわかるはずがありません。何もわからないまま死と言う終わりに向かって突き進んでいます。これは恐ろしい事実です。

 そして、私達がいつかは死ぬように、この世界は確実に終わりに向かっています。
 
 現在の世界状況がすべてを語っているわけではありませんが、聖書が言う、この人類史6千年の中で、もちろん、その終わりに一番近い最先端の時を私達は過ごしている事になりますが・・・最初の造られた人から始められた歴史はもう6千年経過しました。これから後何千年も何万年も歴史は続きません。もうあとわずかです。

 聖書には始まりについて書かれてあると同時に、終わりについても書かれてあります。最初に造られた人がいましたが、最後に造られる人というのは存在しません。この6千年の中で造られた人は、ひとりだけで、それはアダムと呼ばれています。アダムの意味は土です。私達人類のスタートは土造りなのです。

 冒頭で描いたように、アダムからエバが取り出されました。エバも土で造られたアダムから取り出されたので、やはり土です。私達はすべてこのエバから生まれています。
 つまり、私達も土ですが、一番最初に造られたアダムとは異なっているのです。
 アダム(創造されたもの)→エバ(アダムから取られたもの)→全人類(エバの胎から生まれたもの)
 アダムだけが誰からも取られる事も、誕生することもありませんでした。つまりアダムは人から生まれたものではありませんでした。
 エバはアダムから取られ、エバから全人類が誕生し存在していることになります。
 アダムは「何か、誰か」が設計し、組み立てた存在です。何処かに、非常に優秀で完璧なエンジニアがいるのです。
 
 ですから、創造者から造られた人はアダムだけです。その他の存在は、みな、エバ以下、人に備え付けられた所謂増殖機能によって誕生したに過ぎないのです。つまり、最後の人と言う存在もありません。人類は皆同じ土製ですが、直接造られた人類はたったひとりアダムだけです。

 最初の人が造られてから現在に至るまで、どれくらいの人が増殖し、存在し、存在しなくなった (死んだ) のでしょうか。

 すべての増殖した人口を正確に数える事は出来ませんが、ある人口学者によると、およそ1000憶人と言われています。これは今までこの世界に誕生し、この世界を去って行った人、すべてが含まれています。

 現在の世界人口はおよそ80憶人ですから、その人口の13倍程度の人が、エバから誕生し存在した事になります。今まで存在した人が現在の人口のたった13倍程度しかいないと言う事はどういう事なのでしょう。
 やはり、人類史は聖書が語っているように、たった6千年程度でしかないと言う事だと思います。

 私達の人生、この地表で生きれる生涯は70~80年しかありません。地球が太陽の周りを、たった70~80周する程度の時間でしかありません。  
 増殖と言う誕生があって、そして衰え、衰退し、ついには、アダムに似せて作られたこの物質である人体は経年劣化の後、機能を停止します。
 確かに始まりはあったのですが、終わりもあります。最初と最後はこの世界でセットになっていて、そこには例外がありません。

 この世界そのものが終わりに向かっている事は間違いないでしょう。人体が終わりを迎えるように、この世界も終わるのです。人の一生のように、この世界にも一生があるのです。

 人の一生の中には成長がありました。繁栄もありました。安定があり、そして衰退を迎え、ついには機能が停止します。同じように、この世界も似たような経過を辿り終わるのです。

 今世紀と呼ばれる現代世界は、混乱の様相を現わしています。人が作成した兵器は、地球全体を滅ぼすのに、ボタンひとつの作業しか要求していません。誰かの狂気か正気で人類の終わりが左右されます。

 人類は兵器を発明する事によって、自分達の終わりを設定しました。自分達を滅ぼす為、地球を終わらせる為、人類は兵器を開発し、作成し、成り立たせています。人類は終わりの小道具を自分達で作成したのです。その兵器使用の権限を人に与えるのが政治で、国の感情です。

 政治は自国のみならず、世界を欲望のままにふるまっています。そして、その欲望のまま世界で喧嘩が起こるのです。
 世界の喧嘩が頂点に達した時、人々は戦いの最終決定を判断し、地球を滅ぼすほどのボタンを簡単に押してしまいます。それが何処の誰なのかについては、具体的には示されてはいません。
 
 今世紀には、世界の破壊兵器は最高能力点にまで達し、後は、誰と誰が喧嘩をして、誰が誰に対して終わりのボタンを押すのか、だけです。世界は理性を押さえつけた政治の決定だけで終わるのです。

 狂気に満ちた人物による狂気に満たされた政治の中で、人のエゴチックな憎しみが世界を終焉に導きます。

 近年、その人物、役者達が揃いつつあります。政治的、人間的に大まかに言えば、西側と東側、民主主義と共産主義。それぞれの思惑と思想と主義の主張、強調でしょうか。どれもこれも、もう古い考え方です。
 人類は古いもの、古い考えから脱却する事ができず、古いものに縛られ、古いもので古いものの解決しようとしています。人類はもう高齢で古いのです。6千年を経て、人類は進歩してはいません。6千歳の人類は老いぼれ、適切な判断を見失いつつあります。

 なのに、思想、精神の点で人類と言う古い幼稚な幼子は、破壊(アバドン)と言う狂気を得ました。子供が拳銃を握っているのです。その子供達が増加し増大し、兵装には最大限の威力が与えられ、増し加えられています。

 現イスラエルは、今後孤立した戦いを増加させます。そのイスラエルを擁護するのか、敵視するのか、各国の判断は様々でしょう。
 中には、全世界の戦いに乗じて、イスラエルにある資源確保に走る国も出てきます。皆、自分さえ良ければよいのです。世界平和等、考えてはいません。自国の権力と利益のみを追い求め、実は、平和こそが自国の利益である事に誰も、どの政治も、もう思いつけません。終わりの時だからです。

 国の思想が老化し、理性による適切な平和判断が不可能になるのです。世界を仲裁する存在が失われ、その力も失われてしまいます。この時に及ぶ以前は、西暦で言えば2000年初頭迄には、まだ判断する余力がありました。

 近年、保守派なのかも知れませんが、全世界が平和である事を目指す政治が失われつつあります。全世界が平和であって、初めて自国が平和である事を思いつく指導者がいません。もう終わりの時だからです。

 そこにつけ込む、ひとりの指導者がイスラエルと契約を結びます。そして一時的な全世界平和が訪れます。イスラエルも停戦の中、その仲介者と暫くの平和機関を過ごします。世界も一時的な平和に浸ります。
 
 しかし、創造者を恐れぬ、この仲介者であり全世界的指導者である人物は、その残虐な本性を現し、ある時、この世界を終わらせる為、イスラエルを裏切ります。
 その指導者は、実は世界平和ではなく、個人の利益のみを追求する偽者でした。人の根本には、平和を求め、平和を維持する力や思いはありません、常に略奪と争いです。それが人の本質です。

 そして、その指導者は、個人の利益の為、全世界を支配する為、イスラエルに最終的な戦いをけしかけます。その最終決戦途中に、アダムを造った存在が介入されます。人類が膿を出し切った後に、医者でもある創造者が、癒すための行為を行うのです。
 人類史では6千年の時を経て、創造者が、この世界に、目に見える形で再び介入されるのです。

 そして人類は新たな局面を迎えます。その時、人が何であるか。宇宙が何であるか、なぜ私達の存在があるのか、についての理解がすべてのものに及びます。人類は、はじめて自己存在の謎に達するのです。

 この終わりは、絶滅の終わりではありません。
 新たなる誕生、そして世界の更新となります。宇宙空間はそのまま存在しますし、人の生活基盤である地表も存在します。もちろん人も存在します。人の生活も、平和と共に存在します。

 ただ、今の世界と異なっている点は、私達を存在させている存在が何であるかについて、それが明確になっていると言う点です。私達はそれを、神と呼びます。

 すべてを創造し、今のこの歴史を、神の歴史として作り、宇宙的無限大のスケールで、この一大叙事詩を仕上げようとしている神の存在を、かつて、地表に存在した、すべての人類、個人個人、ひとりひとりが、これらを目の当たりにする事になります。

 その時に向かい、今、私達は、それに一番近い、人の終わりの時間に至る最先端の時間と時代を過ごしていることになります。

 この世界は更新刷新されます。この不安で不安定な状態のまま、いつまでも同じ事を繰り返しているわけではありません。人に誕生と死があるように、この世界も誕生と死を経験します。

 もし、私達生きている者が、今、死を迎えるなら、今までの生きて来た理由と、今回死んだ理由についても正確に知らされるでしょう。

 世界も同じで、世界が終われば、すべての存在の謎が解き明かされます。
 
 聖書は、それを、まだ生きている私達に、その世界の終わりに人類が到達する前に、予め、教え、伝えようとしている神の一大叙事詩なのです。

いいなと思ったら応援しよう!