Stones alive complex (Kyanite)
水墨画によく描かれてるような形をした岩と一体化したかに、その老人は座っていた。
使い古された朱色の着物は色あせの具合が渋く、身を包んでいる者と同等の、高潔な風格を醸しだしている。
老人の所作を邪魔しないよう、気配をひそめて近づく。
「釣れますかな・・・?
御老人」
無作法にならぬ程度に、
吐息の口調で言葉をかけてみる。
かすかに老人の白い後ろ髪がそよぎ、こちらへ会釈したことが分かった。
こちらの問いかけへ、答えてくれる。
「・・・今日は、まだ、
当たりはありませぬな。
されど、もうすぐ。
もうすぐです。
大物がかかりますよ」
老人のその親愛に満ちたトーンからは、指先に伝わる微細な当たりの振動を待ちながらも、私とよもやまな話の相手もしてくれる気配が読み取れた。
老人が座る岩の脇に寄り、立つ。
振り向かずに老人は、
「・・・あなたは・・・どうやら。
ただ者ではありませぬな・・・」
深海のうねりに似た響きで、
その老人は語りかけてくる。
「私が持っている釣竿が、
あなたには見えているようですね」
言うとおり。
老人は釣竿などは持っておらず。
ほどよく力を抜いた両手で、細長いものを支えるポーズをしているだけだ。
けれどこの御老人は、間違いなく岩の上で釣りをしている。
「ええ、見えますよ。
長い長いその釣竿が」
「ほぉ。やはり。
たいした御方のようだ」
「ついでながら。
この狭い裏庭と重なりあった、
あなたが見ているのであろう果てしのない蒼き大海も、そこの波間に遊ぶウキも。
私の目には、はっきりと映っております」
庭石の上に座る老人は、
感嘆をこめた含み笑いをし。
「境界線のはるか向こうにまで、自由に羽ばたけるイメージの力さえあれば。
どこでも釣りはできるのですよ。
たとえ切り立った山の頂上でも、
捕えられた牢の中でも、
殺風景なオフィスの机の前でも、
ちっぽけな庭石の上でも・・・です。
どんな境遇に置かれていようと、
イメージの世界では誰でも自由なのです。
居たい場所に居て。
好きなことができる。
イメージというものの境地を極めれば、その可能性には限界というものがないのですよ、
おっと!!」
老人が、素早い身のこなしで立ち上がった。
見えないウキが、沈んだらしい。
「やはり!
大物が、釣り針にかかったようです!」
岩の上で巧みにバランスをとりながら、
老人は見えない釣竿を操った。
見えない細い釣り糸の縁で結ばれたその見えない獲物と、
一対一で魂の駆け引きをしている老人の動きは、
太極拳の達人が演舞をしているようだ。
うっかり御老人の舞を見とれているうち。
どうやら、はるか水平線の彼方より、獲物を岩のすぐ近くまで引き寄せたようだ。
「どうです!あなたにも見えるでしょう?!
素晴らしい模様の大きなニシキゴイがかかりましたよ!」
海面まで引き上げられてくる見えない獲物へ、汚れなき童子のごとくな笑みを向ける御老人に、
「危なーいっ!」
と、飛びかかる!
チャンスはいつも、このタイミングしかない!
体当たりされた老人は、
うおっ!と短い悲鳴をあげ。
岩から裏庭の芝生へ転がり落ちた。
そのまま馬乗りになったこちらへと、
「な、なにを?
いったいなにをなさるのです?!」
見えない釣竿を放り出し、
見えない白波がうち寄せる見えない水うち際でもがいた。
驚いて振り回す老人の両手を、しっかりと押さえる。
「釣り糸にかかったものを、
よくご覧なさい御老人!
あれは!
クラーケンですよ!」
「ク、ク、クラーケン!?」
「そうです!
ギリシャ神話に出てくるタコの化け物です!
あいつの吸盤に捕まったら、
深海に引きずりまれてしまいます!」
目を白黒させて、
馬乗りの下から苦しげに、老人は反論してきた。
「あなたには、あれが!
みやびな風合いのニシキゴイではなくて、
そのクラーケンとやらの怪物に見えてるのですか?」
「おっしゃるとおりです!
逆にお尋ねしますと、
あなたには、あのおどろおどろしきクラーケンがニシキゴイに見えてるのですか?」
「私のイメージでは・・・
みまごうなき美しくも気高いニシキゴイに・・・
見えておりますが・・・」
「じっとしているのです御老人!
クラーケンに見つからぬように!」
白黒してた目が赤青っぽくなってきた老人がふと、耳を澄ますして、もがくのを止めた。
遠くから響いてくる、
フォン~フォ~ン~!
という、
危機を予兆するかのけたたましい音が、どんどんこちらへ近づいてくるのが聞こえたのだ。
老人は、こちらの顔を狼狽した表情で見つめる。
「不気味な音がはっきりとこの私にも聞こえます・・・
あの音は、
そのクラーケンが吠える声・・・
なのですか?」
「ようやく聞こえてきましたか。
そのとおりです。
ていうのは、嘘!
あの音は、
我が家の裏庭へ忍び込んでいた不法侵入者を捕まえに来るパトカーのサイレンですよ御老人。
わたくしが呼んでおいたのです」
「え?
不法侵入者?
どこにいるんです?」
「わたくしの体の下に馬乗りにされて・・・
いつもどおりに、何もかもすっぽりとお忘れのようですが。
今週は、これで二度目ですよ。
お隣の御老人」
(おわり)