見出し画像

quill 1

   邂逅

 あの薄い鼻筋が際立つ横顔を、飽かず眺めていた時間があった。
 その視線はいつも窓の外、遥か遠くに投げられていた。瞬きのためにゆっくりと下ろされるまぶたがまつ毛を揺らすのさえ、目に焼き付けていた。

 その横顔は、今もまた遥か彼方へ視線を巡らせている。雑居ビルの外付けの階段を登る足を止めて、虚空へ睨みをきかせているように見えた。
 また歩を進めようと、少し前屈みになった背中を見とめて、意識するより先に、名前を呼んでいた。
糸川いとかー
 その声に振り向いた顔は、意外にも笑顔だった。まさかという驚きが大半を占めているけれど、きっと笑顔に分類されるであろう、優しい顔だった。
「ストーくん?」
 懐かしい呼称が、あの頃の空気や距離感をフラッシュバックさせる。それだけでも眩しいのに、足を止め、振り返ってからだ全部をこちらに向けてくれた。思い出してしまっている、あの頃の彼女の容姿と、目に写っている今の全身像が混ざって、正しく認識されない。巻き戻ってしまった感覚と、今現在の像を整理するのに頭の中が忙しい。
 処理落ちしているはずの須藤すとうの顔は、ただ空を眺め、ぽかんとしているようにしか見えない。気の抜けた顔の須藤に、糸川は笑顔で近づいてきた。

 曇天の下、須藤柊太郎すとうしゅうたろうは通っている専門学校からの帰路についていた。乗降客数の多い駅にある学校だが、駅の近くにあるわけではない。駅周辺の高いビルや繁華街を抜け、整備された公園を抜けた先にある。
 学校へ直接アクセスする公共交通機関は路線バスがあるが、運賃とバスを待つ時間がもったいない気がして、いつも徒歩で移動している。しかも割と早足で。なのでいつも息切れがしている。それでも移動に時間も金もかけたく無い。
 やけくそな気持ちで歩いていた時間が、今全て報われた気がした。歩き回っていなければ、偶然糸川と出会うことはなかったから。
 胸の前で手を組んで、膝立ちで空を仰いで感謝する。そんな大袈裟なポーズを取る気持ちすら理解できた。『とにかくハッピー!どうもありがとう』と書かれたTシャツを着たっていい。それほどまでに浮かれている。
 目の前にいる糸川利加いとかわりかという同級生に会いたい気持ちが、須藤のなかでそれほどまでに大きなものだったと再確認された。

 糸川利加は、須藤の中学生の頃の同級生だ。中学校三年生の時に、初めて同じクラスになって、そして秋が終わると引っ越していった。糸川のいなくなった教室は、須藤にとって退屈で価値の無いものになった。たった一人の存在で、それほどまでに世界が変わるなんて、須藤は知らなかった。わからされてしまった。糸川がいなくなってしまったその後に。
 幾度となく思い出すその横顔に、焦がれていたのだと気付いたのも、糸川がいなくなった後だった。
 それから須藤にも、恋人ができたりしたけれど、須藤は糸川がどうにも忘れられなかった。糸川とそれほど親しくはなかったはずだった。それなのに糸川の横顔を思い出すと、胸のあたりを拳でどんと押されるような気がするくらい、胸が高鳴るのだった。
 いなくなった相手を美化しすぎているのだ。だいぶ大袈裟、なんてロマンチックなんだ。そう思うことは度々あった。思い出を美化する傾向は、男の方が強いらしい。そんな話を聞いたことがあるような気もした。
 けれどどうだろう。今また目の前に現れた糸川は、思い出補正以上に澄み切って、優しい顔をして笑っている。胸を押す拳は力士級のパワーで、張り手みたいに何度も攻撃してくる。
 そんな訳で須藤は、未だヘラついた顔を修正できぬまま、糸川の前に立っている。

「ストーくん、変わらないね」
 糸川の少し低い声が響く。糸川は今も昔も大変麗しい。そう言いたい所を須藤は飲み込んだ。糸川があまりに優しい微笑みをたたえてそう言うものだから、褒められているような気がして質問する。
「え……どのへんが?」
「いつも楽しそうなところ」
 そう言って、首を傾げてよりいっそう笑う糸川は、もう天使と言って良かった。ひとり街を歩いていただけなのに、楽しそうと思われている事は、須藤はあまり気にならなかった。糸川が楽しければそれでいい。
 中学生の頃からの、茶色っぽい髪色はそのままで、あちこちに跳ねる毛先が背中や腕をくすぐっているように見える。透き通って向こう側が見えるような気がする肌の色も変わらない。
 あの頃みんなは糸川を、あの色素の薄い子、と呼んだ。糸川はあまりクラスで積極的に活躍するタイプではなかったから、名前を知らない奴が大半だった。
 それには須藤は驚いた。あんなにも綺麗な存在の名前も知らないなんて。どうかしてる。もったいない。ちょっとバカなんじゃないの。そうは思ったが、須藤もみんなに糸川の素晴らしさを語ったりはしなかった。自分だけが糸川の美しさに気がついているのが誇らしかったし、みんなが食いついて美しさが荒れてしまうのも嫌だった。なにより、糸川をただただ眺めていたかったから、外野はいないほうがいい。それだけだった。

「糸川はなにしてんの?上見てたけど」
 空を指差した須藤の動きを追って、糸川は空を見上げた。顎と首のラインの美しいこと。須藤は目を細めた。緩んだ須藤とは反対に、糸川の表情はこわばった。
「須藤くん……逃げて」
 震える声でそう言うと、両手で須藤の肩を突き飛ばした。後ずさっているうちに、糸川はさっき登ろうとしていた階段へ向かって走り出している。そうして後ろも振り返らず、一気に階段を駆け上がっていく。脇目も振らず、空を目指して。

 逃げる、という言葉や行為は、いつの間にかありふれたものになっている。いつからか我々は、逃げなくてはならない状況にある。サイレンが鳴ったら、赤く発光する警報灯の区域から出なくてはならない。
 逃げなくては『白い光』にのまれてしまう。白い光にのまれたら、全てが消滅してしまうから。
 それが当たり前の世界。
 けれど今、サイレンなど鳴っていない。警報灯も点いていない。あれから逃げるのでなければ、なにから逃げるのか。そしてどうして、俺にだけ逃げろと告げて、糸川は別の場所に向かうのか。
 須藤は糸川の意図が、なにもわからなかった。けれど今追いかけなければ、糸川にはもう会えないような気がして、雑居ビルの階段に向かって走り出した。

 その時、いつものといえばいつもの、けたたましいサイレンが鳴った。耳に障る、ビービーという大きな電子音が街中に響き渡る。
 電柱よりも狭い間隔で、街中のあちこちに建てられている細い柱の先が赤く強く発光し始める。細い柱の先端には、サイレンを鳴らすホーンスピーカーの上に、二色の表示灯が付いている。普段は無点灯、非常時は安全区域であれば緑色の光、避難区域は赤色の光とサイレンを響かせる。今は見渡す限りの赤。
 街中の人が走り出す。小さな建物のなかにも、こんなにも人がいるのかと思うほどに、わらわらと途切れず人が飛び出してくる。それぞれに急いではいるが、それほどまでに慌てた様子はない。皆が避難行動に慣れている。繰り返しの訓練と、何よりも度々起こる、避難を実践する機会が、彼らの動きを落ち着きをはらんだものにさせていた。皆無言で、安全区域を知らせるアプリを見ながら、冷静に目的の方向に進んでいく。
 須藤はその様子を、雑居ビルの外付けの階段からしばらくぼんやり眺めた。初めて見る光景だ。人々がまるで自分から離れて行くように散って行く。こんなにも潔く、取り残されていく。漠然とした不安が黒い塊になって、胸の真ん中を占拠していたが、この階段の先にいるであろう糸川を、置いていく気にはなれなかった。
 気を持ち直して階段を駆け上っていく。そういえば、この階段を降りて逃げて行く者はなかった。誰もがこの地を捨てて走り出しているのに、誰もこの通路を使わなかったことが不思議だ。
 階段を登り終えると、屋上に出た。エアコンの室外機と、いくつかの配管が無造作に剥き出しになっているだけの屋上。なにか楽しめるような設備は何もない。それなのに屋上に直通する階段が取り付けられている。最短でそこへ上がれるように。そういえばいつからか、ある程度の高さのある建物には、外付けの階段が備え付けてある。どんな古いビルにも、真新しい外階段が付けられている。そんな事に須藤は今気がついた。
「糸川〜?」
 あたりをぐるり見回して、追いつきたいその人の名前を呼んでみる。返事は無い。

 十年位前から、世の中は急速に物騒になった。そう、全てを無に帰す、白い光が現れたのだ。
 空から降る一筋の光。太陽光の自然現象では、天使の梯子、なんて呼ばれている美しい光景は、一気に恐怖の対象になった。
 空から地面を刺す白い光が、全てを持っていった。白い光はスポットライトのように、ある一部分だけを照らし出す。
 白い光に照らされた全てのものは、重力など無いもののように浮かび上がり、光源に向かって吸い込まれていく。焼肉屋の七輪の上の肉から上がる煙と、七輪の上で待ち受ける排気ダクトの関係性のように、否応なく吸い込まれていくのだ。白い光に照らされ、あらゆる物質が吸い込まれた後、何もない地面が残るのではない。土ではなく骨に似たミネラルで構成された、真っ白な陶器のような硬い地面が残る。
 なんにもない、真っ白な空間。虚無が可視化、具現化されたかのような。
 そんな不思議で、恐怖しかない現象が、世界の様々な場所で起こり始めた。それぞれの国が、軍事的・科学的にありとあらゆる対処をしたけれど、未だその白い光の発現を止められてはいない。光源が自然現象なのか、人為的操作なのかすら突き止められていないのだ。
 世界中が試行錯誤した結果
、ただ一つ、効果的な対抗策を得た。白い光の発生の時期と場所の予兆を捉えることができるようになったのだ。それがどういう仕組みなのかは公にされてはいないけれど。そうしてあらゆる場所に警報灯が置かれ、アラームが鳴るようになり、避難区域と安全区域が分けられるようになった。それから人々は、逃げることが生活の一部になったわけだ。
 どこからかきて、なにもかもをどこかにもっていく。そんな白い光がもたらす恐怖は、人々の生活にも暗い影を落としている。以前と変わらず、人生のサイクルは流れていく。けれど先々への希望とか、目標とか、そんなものへの憧れは無くなっていく。未来に憧れようがない。白い光とともに、消えてしまったらすぐ終わりなのだ。刹那的なものへの羨望が高まる者、確定されない安全に震えて下を向く者、何も考えずただ時間を過ごす者、大多数がそんなふうに生きている。
 そんな世界だ。

 アラームの音がますます大きく響き、須藤の周りを包む。四方八方からの大音量に、方向感覚が麻痺して、今自分がどこにいるのかわからなくなるようだ。階段の手すりを強く握った。
 ふいに、あたり一帯に暗い影が落ちる。何が起きたのか確認しようと、空を見上げた時、須藤を呼ぶ声があった。
「ストーくん、逃げて欲しかったのに」
 いつのまにか屋上の真ん中に、糸川がいた。暗く翳った世界に、ひとり。
「わたし、どうしたらいいかわからないけど、とにかくやらなきゃいけないから。絶対、そこを動かないでね」
 ほとんど泣きそうな声で、糸川はそう呼びかけた。けれど須藤を見据える力強い目にも、きゅっと引き結んだ口元にも、泣き出すような弱さはない。
 やるって、なにをやるって言うんだ。この避難区域の真ん中で、逃げもしないで、ただひとりで。
 須藤の頭の中を、そんな言葉が巡ったが、次の瞬間には何もかもを忘れて、糸川の姿に釘付けになった。
 糸川の背中から、羽が生えてきたのだ。背中に収納されていたかのように、ゆっくりと畳まれた白く大きな羽が伸び、彼女の姿全体を覆ってしまった。先程見た小さな身体のどこに、あの大きな羽がしまわれていたのだろうか。
 あり得ないと思いながら、その姿を素直に美しいと感じる須藤がいる。羽なんてものが生えていなくても、もとより天使のように見えていたのだから。なお一層に輝く糸川に身惚れた。
 薄暗く翳った屋上に、しかも糸川の足元に、拳大くらいの円形の白いものが落ちた。落ちてきたように見えたそれは、徐々に広がっていく。大きくなるとともに、白いものは発光し始めた。そうしてやっと、これがあの『白い光』なのだと須藤は気がついた。
 糸川が、危ない。
 そう頭を掠めたけれど、須藤の身体はぴくりとも動かなかった。糸川の美しい姿に、呆けていたせいだけではない。彼女の側に近寄ろうと、持ち上げようとした足は、地面に張り付いて動かすことはできない。階段の手すりに置いた手すら、離すことができない。どういうわけか、自分の意思では、身体が動かせないのだった。
 それでも視線だけは糸川を追った。そもそも釘付けられて、視線を外すことなどできない。

 白い照射円が大きく広がっていくと、彼女を覆い隠していた羽が左右に広がっていく。大きな両翼を広げて、光の中に立つ糸川は、神々しいと形容していい輝きの中にいる。
 糸川を照らす、空からのピンスポットライトは、彼女をすっぽり包むくらいの大きさまで広がった。
 糸川は手を左右に広げ、光を浴びるように、足を一歩前へ踏み出した。長いスカートの裾がふわりと広がって、糸川の足元に色の薄い影を落とす。美しい光景、そう言えたが、目を凝らすと糸川の足元の地面は、もう真っ白に硬化している。いよいよ糸川が吸い込まれて行くのでは、と須藤の背中に冷たいものが走る。喉がカラカラだ。
 顔をこわばらせている須藤をよそに、糸川は反対の足を横に広げ、ジャンプするように飛んだ。めくれたスカートの隙間から、細い足と、既に白くなっていた奥の地面が見える。美しいのに、苦しい。
 次に糸川は着地した足を軸に、ゆったりくるりとターンした。ふわふわと揺れて舞うスカートとは対照的に、糸川の背中の翼は、広がったまま固まっているかのように動くことはなく、ただ裾の羽根が動きに合わせて少し揺れるだけ。またもう一歩、弾むように足を出すと、急速に光の輪が萎んでいく。まるで糸川のダンスを堪能したとでもいうように。
 何も吸い込まれていかなかった。なにも奪われなかった。白い光がさしているのに、聞かされている事と違う、こんなイレギュラーな事があるなんて信じられない。それもその光の真ん中に、羽の生えた糸川がいたことが。
 あたりが一旦また翳って、それから何事も無かったかのように、弱い陽がさしてくる。白い光はどこへいったと、上空に気を取られているうちに、視線を戻した糸川には、羽が生えていなかった。
 ただ彼女の足元は、白く硬化した地面に変わっている。さっきまであったはずの、地面の上に降り積もった土や埃、そんなものは全く無くなっているのだった。
 いつの間にか鳴り止んでいるアラームの代わりに、鳥がどこかで囀るような声や、ゆるい風の音がして、須藤の身体も一気に緩んだ。緊張が解け、首を静かに汗がすべり落ち、身体の自由が効くようになったのがわかった。なぜか肩で息をしている。

「ストーくん」
 さっき声掛けられた時とは違う、緊張を含んでいる声が呼ぶ。
 不安、心配、恐れ、そんな薄暗いものが糸川の顔いっぱいに張り付いている。小さな肩が震えているように見えた須藤は、自由になった足で、全速力で駆けつけた。
 隣に立つと糸川は小さかった。須藤の肩口と糸川の頭のてっぺんが同じ位の高さにあった。こんなに小さな彼女が、白い光の侵攻を防いだのだ。
 単純に、すごい。その気持ちがあった須藤には、糸川がなぜ悲壮感のなかにいる顔をしているのかわからない。サムズアップでウインクしたい位ではあったけれど、状況的には良くない気がして、精一杯の気持ちを込めて、優しく微笑んだ。
 糸川の張り詰めた顔が、ゆるゆると柔らかくなるのを見て、須藤は安堵した。
「行こう」
 そう言ったのは糸川で、須藤の手を取って階段の方へ歩いていく。
 手を引かれながら歩き、気づかれないように、前を行く糸川の横顔を見つめる。


                  〈続く〉


不定期ですが、更新していけたらいいな、と思っています。
よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?