3つ子戦記【術後 そして面会】
壮絶な痛みに耐え忍んだ術後2日目。
この日は病室にあるトイレまでの歩行が目標とされていた。
私のベットは窓際でトイレは入り口側。たった5m程の距離がものすごく遠く感じた。
まず横になっているベットから起き上がれない。力を入れようもんなら痛みが走る。お腹の傷にさわることが怖くて怖くて更に動きを遅くした。
看護師さんが歩きましょうと来てくれてから私がベットを降りるまで10分はかかったろう。
体を起こす事ができず、脚をとりあえずズリズリとベットの外へ落としベットについている手すりをよじよじと登り、何とかベットに座る体勢をとる事ができた。
そこから点滴棒を支えに床に脚をつけた。この時の私の体勢は老婆そのもの。点滴棒を前に腰を曲げてヨボヨボと少しずつ歩いた。
普通ここまで帝王切開後に弱ることはないらしい。看護士さんも少し呆れていたが、頑張って私を応援してくれた。
その日は何とか目標の歩行はヨボヨボなりに完了させた。
こんなにも体が動かなくなった事が人生でなかった私は涙が出た。
管理入院に入って今まで泣いたことはなかったが、これから産まれた子どもたちを育てなければいけないのに、こんなにヨボヨボでどうしようと不安だった。
そして、その日の夜から搾乳が始まった。
子どもたちはNICUにいるので、直接吸える訳もなく、私の乳を母乳が出るように刺激してくれるのはメデラの搾乳機が頑張ってくれた。
最初は全く出ず、とりあえず3時間おきに15分ほど搾乳機を胸に当て過ごした。
もうここからずっと昼夜問わずの搾乳期間が始まり眠れなくなった。
次の日には少しずつ母乳がでるようになってきた。本当に女性の体はすごいなと思った。
ほんの少しの母乳でも、大事にしますからね!と看護士さんや医師が大事に子どもたちに運んで与えてくれた。嬉しかった。
術後3日目。車椅子で初めてNICUに夫と連れて行ってもらった。
保育器に一人一人入っている3人の赤ちゃん。
小さな小さな鼻から胃にチューブが通され、心拍や酸素濃度を測る装置が体に付けられていた。
呼吸も安定していて元気ですよ。と医師が説明してくれた。保育器に入っている子どもたちからは生命力が溢れているように感じて少し安心した。
車椅子から一人で立ち上がる事ができないため私は直接子どもたちに触れる事ができなかった。
息子を見ている時、小さな声で、でも力強くオギャーオギャーと泣き始めた。目の前で泣いている我が子に触れてやれないことが悲しくて情けなくて夫の前で初めて泣いた。
ティッシュがなかったので近くにあった手拭き用の紙をもらい涙を拭いた。ゴワゴワだった。
看護士さんが大丈夫、泣いてもいいですからねと優しく声をかけてくれた。看護士さんって何でこんなに優しいんだろうと心から尊敬する。
産まれた赤ちゃんと母親が離れることを母子分離というそうだが、やはりいつも側にいてあげられないのは申し訳ない気持ちがあり、この時期の私は情緒が不安定になった。
また病室に戻り、一人で搾乳を頑張った。
1人だろうが3つ子だろうが出産をしたら経過が良ければ5日で退院させられる。
私は術後4日目にしてやっと点滴棒を持たずに立ち上がり歩行(ヨボヨボ)することができた。
術後5日目。ついに長い管理入院生活から退院する日になった。3ヶ月間お世話になった看護士さんたちに挨拶をして、夫と家に帰った。
家に帰ったからといって何が変わるわけではない。動かない体とやらなければいけない3時間おきの搾乳。病院にいた時はすぐ看護士さんを頼れたが家には日中、私1人だ。
帰ってから1人寂しくてメソメソと泣いた。
この時の私はよく泣いていた。
1番自分でも驚いたのは小蝿に泣かされたことだ。
搾乳するときに、ふと小蠅が目についた。
小蝿=汚いという考えが浮かび、どうにか退治したかったが、体は素早く動く事ができず殺虫剤を使う事もできない。
自由に飛び回る小蝿。
搾乳した乳に入ったり、ばい菌がついたらどうしようと私はパニックになった。
こんな小蝿1つも自分で解決できないのかと情けなくなりまたメソメソと泣いていたら夫が帰宅した。
搾乳しながら泣く私を見て、どうしたの?と声をかけてくれた。小蠅で泣いているなんて言ったら呆れられるかと思ったが、そのことを伝えると小蝿をすぐに退治してくれた。
こういう優しさは一生忘れないだろう。
ありがとう、夫。
出産前の私は山で働いていたくらい虫なんて全く怖くも何ともない人間だったのに。
一体、私はどうなってしまったのか。
ここから睡眠不足とホルモンバランスの乱れで大いに苦しめられる長期戦が待ち受けていることをこの時は想像できていなかった。
長くなったので続きはまた次回に書きます。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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