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精神発達症は、どのように理解されているのか?

いろんな意見は、あるのは納得ですが・・・・

先週、授業中に「発達障害もってる人がいま~す」と叫んだ男子生徒がいました

『持っている』という表現は、関西ではスタンダードで使うと
関西在住の方に教わりましたが、現場は都内でした

昭和のわたしは「特殊」という名称だったので、ドキッとしました

あくまでも、個人の感覚ですが。。。。
触れてはいけない繊細なものというか
暗黙了解というか

その言葉を授業中に、大声で叫ぶハードルの低さに 言葉を失いました

なぜ、言葉を失ったかというと
「そんなこと(発達障害もち)を言ってはいけません」と注意したら
 = 発達障害は、ネガディブなもの


になってしまうし・・・

「何のために、発達障害を持っていることを知らしめたいの?」と介入したら 
→ 深堀するところか疑問


他にも、バージョンは  よぎりましたが、どれが正解なのかが判断できませんでした



だけど、ビックリしました
そして、悲しくもありました



その2日後。。。
別の学年で「ADHDなんで、今から叫びます! もう、我慢できません」と大声で発言した生徒がいました

一瞬。意味が理解できずに「ん?」となり「あ~。あれ(神経発達症)か」となりました

心づもりをしていても、叫ばない。。。。
近くにいた生徒に「ねぇ?最近は、自分の特性をオープンにして支援を受けることが、多いの?」と訊いてみました

だって、1週間に2度もこんな授業は経験したことが  ないからです

衝動が出そうになったので、みんなを驚かさないために告知した
だけど、自身もコントロールにも挑戦しているのかな と思ったからです

「あれ、違いますよ」
「え?」
「言ってるだけです」
「つまり、診断は出ていないってこと?」
「はい。っていうか、発達障害の子を馬鹿にして からかって いるんです」
「わ~。最悪。。。」と
教師としては、クレームになる一言が思わず口をついて、
あわててその子の顔をみると、その子もわたしの顔を見ていて
「自分のお姉ちゃんが、そうなんです」という
「それじゃ、忌々しいよね」
「はい」

教師として、特定の生徒に対して『忌々しい』もアウトではあろうが
その生徒の顔を見てしまった(葛藤している顔で、耐えているのが分かる。教卓でなかったら、抱きしめてしまったような。。。切なさ)以上は、人として他の言葉は無かった。。。。

一つの状況に、様々な意見があることは仕方がない

確かに、特性だからと言って
わけもなく殴られたり、授業妨害差をされれば、腹が立つ

ず~っとストレスを我慢させられる定型発達からすれば
「どっか行ってくれ」とか「静かにしろ」と切れそうにもなるだろう。。。。(わたしは、なります)

でもな・・・・

クラスの中で、特性をからかっている友人を 
たしなめる事が 無いほうが、わたしの感覚では不思議だったのです

『そんなことを言う、自分が悪い人』と感じさせる雰囲気というのかな~
これって、昭和の感覚かな~

そして週末
「うるさい!ADHD!!! もう黙れ」と授業中に、
生徒がずっとしゃべってる生徒に切れた

また!? っとドキッとしたが、
ほかの生徒も「お前。いい加減にしろよ」と異口同音にいい
本人が「ごめん」といった

思わず、吹いてしまった
これが、きっとインクルーシブ教育なのだろうと思った

フラットに、ダメな行動だけを指摘する
人格ではなくて、行動だけ
しかも、短文の1回のみ・・・・うん。爽やかでモヤモヤ感が残らなかった

しゃべらずにはいられない特性を理解した後に
爽やかに、迷惑な時は指摘をし
許容範囲内の時は、多めに見る
時に、この子はクラスメイト3人に囲まれて、最後部列に移動させられたこともあった

休み時間になると、みんなで団子になってワイワイ(騒々しく)話しています
対等な友達だよね

勉強したいときは、排除されちゃうけどね
前者の悪意に満ちた空気とは全く違う


この差って、何なのだろう???
それぞれのもって生まれた感性なのか?
育てられた背景の価値観なのか?

気になりませんか?
考えてみたくなるのは、わたしだけなのでしょうか?

こんな投稿にも、納得できる

何が、違うのだろう?


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