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卒乳悲喜こもごも


離乳食。卒乳。おむつトレーニング。子どもを産んで育てる中で、誰もが親子で越えなければいけない。一つずつステージをクリアしていくのは喜びである。しかしその道のりはなかなか厳しいのである。どれにもタイミングというものがあって、個人差もあって、よその子は出来るのにうちの子は出来ないなどと嘆いてみたり、いつになったら出来るようになるのかと焦ってみたり。「そんなに焦らなくても、おむつが外れていない子はいないんだから、大丈夫」と母に言われたことがあった。経験値からくる余裕だ。トレーニングパンツというものがあって、これは吸収力で勝負している紙おむつと違い、吸収力がほぼ無い。普通のパンツよりは厚みがあるものの、おもらしすればグッショリと濡れて、多分本人は気持ち悪い。その、グッショリ濡れて気持ち悪い感覚を経験させるためのパンツだ。夏場であれば、家の中ではそのパンツさえ履かせずに、下半身丸出しで生活させたりもした。おもらしされることを怖がらず、開き直って諦める。あーあ、とか言いながら床を掃除する。今考えても大変だった。大変だからこそ、出来た時の喜びも大きいってもんだ。


うちの長女はとにかく母乳を吐くことで有名だった。飲んでは吐く。飲まないと泣く。飲んでもゲップがうまく出来ず、出来るまで抱っこ。そうしてるうちにまた、次の授乳時間がやってくる、そんな具合だった。だから、卒乳の苦労はあまり覚えていない。長女も私も、卒乳してせいせいしたのかも知れない。対して次女は、とにかくゲップが上手だった。飲み終えるか飲み終えないかでゲフッとやって、そこからすやすやと何時間も寝てくれた。手のかからない優秀な赤ちゃんだった。


だからだろうか。私はもっと次女のお世話をしたかったのだろうか。気がつくと1歳半がきていた。そろそろ母乳をやめないといけない時期である。しかし、この母乳を飲んですぐに寝てくれる、あるいは機嫌良く遊んでくれるという、夢のような正のループを手放すのが惜しい。母乳さえあげていれば、なんの問題もなくすくすく育つ。ラクが出来る。いやしかし、そんなわけにはいかない。何か良い方法はないものか。


見つけた。無理やりではなく、子どものほうから離れていく方法。それは、おっぱいに顔の絵を描くというもの。何でもいい。目と鼻と口があればいい。私は水性マジックで、へのへのもへじを描いた。鏡を見ながら描く自分の姿が可笑しくて笑った。間抜けなへのへのもへじが描けた。しかしこんなんで、ホントにうまく卒乳出来るのか?半信半疑。いや、全く信用していなかった。こういった、育児書とかネットに出ている方法が100%全ての子どもにあてはまる補償はない。環境も違うし、性格も違う。しかも、おっぱいに顔って。さあこれを次女はどう思うのか。


来た来た。


おっぱいめがけて突進して来る次女。「はいはい、分かった、分かった」おもむろに胸を出す私。


それを見た途端、凍りつく次女。何かものすごく嫌なものを見せられたとでも言いたいような怪訝な表情で私の胸を見つめている。どうよ、と言わんばかりに次女に胸を近づける私。すると次女は一目散に逃げてカーテンの中に隠れた。


成功?多分成功。しかし私の中には一抹の寂しさが湧き起こる。そんな嫌な顔、しないでよ。そんな遠くから怖いもの見たさな雰囲気を出さないでよ。


卒乳とは、寂しいもんだ。数時間後、次女は私の胸の状態をすっかり忘れたかのように、またおっぱいをねだりに来る。私はまたあの気味の悪い胸を晒す。次女は逃げる。虚しい。寂しい。ホントは母乳を飲ませてあげたいの。だけどそうはいかないの。心を鬼にして、というより心で泣きながら私はおっぱいを仕舞う。こんなことが何回かあって、無事に卒乳終了。卒乳したらしたで、今度は夜の寝かしつけ。咥えさせるだけで子どもを黙らせるおっぱいの偉大さを噛み締めながら、子どもを抱いたりおんぶして廊下を行ったり来たり、眠くなるまでずーっとずーっと。


最近のパパさんは、この寝かしつけに協力的みたいだ。ママの代わりに寝るまで抱っこ。うちも何度か旦那さんがやってくれた気がする。もう私の腕と眠気が限界ーってなってお願いした。「寝たよ」「え、もう?」旦那さんの時に限って意外に早く寝たりする。悔しい。もっと子育ての苦労を味わえばいいのに、なんて思いながら。それもこれも、今は良い思い出。



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