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今なら小さなラッキーを喜べる人になれる
感染症のおかげなんてというと語弊があるかもだけど、とにかく感染症が私たちの日常を大きく変えたおかげで、今まで”あたり前”だと思ってた事が実はあたり前じゃ無くて、その事に感謝しなくちゃいけないんだよと皆思うようになった。
自分の好きな時に行きたい所に自由に行けて会いたい人に自由に会えて、命の危険を感じるような出来事はそうそう起こらなくて、何でもない時にマスクをしていたら感じが悪いと思われていた頃は、それら全部があたり前だった。何の疑いも無く、世の中そういうもんだと思っていた。つい最近までね。
だけどそうじゃ無くなってしまった。無くしたら急に窮屈さを感じてる。
夏休みだからっていつもいつも旅行になんて行って無かったのに、今年は旅行にも行けないよぉと嘆いてみたり。我ながら笑える。
だからもう嘆くのはやめよう。無いものねだりをしたって楽しくない。
外出や外食の機会が減ったからお金を使わなくてよくなったなぁとか、スーパーでたまたま友達に会えてラッキー、とか。今なら小さなラッキーを喜べる人になれる。
去年『セミオトコ』というドラマを観た。山田涼介さんが人間の姿で生まれたセミオトコ(セミオ)で、人間の女性(木南晴夏さん)と恋に落ちるというファンタジー。土の中で7年間過ごしてやっと生まれてきたセミオだが、その命はたったの1週間。女性はセミオに言う。
「セミオと一緒に過ごせるのって1週間しかないんだね」
するとセミオはこう言う。
「1週間しか、じゃなくて1週間も、ですよ」
”しか”と”も”、接続詞が違うだけでその幸福度は何倍にも跳ねあがる。セミオが健気で愛おしい。(山田くんの顔だからか?)
先日新聞のコラムにこんな文章があった。
『さみしいってことは、楽しかったからだよね』
こういうのを目から鱗っていうんじゃない?そうだよなぁ、楽しい時間があってそれが終わるから寂しさを感じるんだ。辛い時を過ごしていたなら、早く解放されたいって思うだけだろう。今はどっちの気分だろう。
いつの日かマスクを外す時、私は寂しさを感じるのも悪くないと思うのだ。マスクは窮屈だったけど、メイクの崩れが気にならなくて良かったし、おじさん達が可愛い布マスクを付けてるのは面白かったよね、なんて。
新日常の新が外れてやがては日常になる。だったら楽しい方が、断然良い。
昨日娘の運転で出かけた帰りに突然目の前に花火が上がった。近くで花火大会があったらしい。写真は上手に撮れなかったけど、花火と共にテンションも上がったのだった。ラッキー!