普遍人間学 第5講レポート その1
わたしたちのこころの技量、考える、感じる、欲するということは、それはそれ、これはこれ、という風にはっきりと分かれていない。
これまで、「考える」ということはどういう働きか、また「意欲」ということはどういう働きかということをじっくりと見て来たが、実は、この「考える」働きは、全き考える働きだけではなく、その根っこには「意欲」の働きを底流としていることがわかった。
また、反対に「意欲」の働きも同様に「考える」働きを底流としている。
そうでなければ、人は人としてあることはできないのだ。
この「考える」から「意欲」の2つの極を人間は2つの色が重なるようなグラデーションを描きながら、その都度その都度、揺らぎつつその色合いの場所に立っている。
そんなイメージを私は描いた。
それは、からだの側面から言えば「神経」と「血」という2極であり、こころの側面から言えば「シンパシー」と「アンチパシー」という2極だともいえる。
わたしたち人間はこのこころ、からだ、精神の様々な織りなしの中で、2極を揺らぎながら「わたし」という本質を見定めて立つ生き物なのかもしれない。
面白いのは、動物の目は人間より「血」の働きが盛んであり、また他の器官であっても人間より多くのシンパシーを繰り出しているというところだ。
だから、動物は周りの世と一つのように馴染む。
動物たちはどのようにこの世界が見えているのだろう。
どのように世界を感じているのだろう。
反対にわたしたち人間にはアンチパシーがより多く繰り出しているために、今のわたしたちの目の働きが成り立っている。
わたしたちが普通に目でものが見えるのも、無意識下でアンチパシーが強く働いているためである。
これは、普通の意識の域の下で行われているので、普段からそのアンチパシーを不快に感じることなく生きることができている。
目だけではなく、からだのあらゆるところで、神経と血が交わる。
つまりアンチパシーとシンパシーが交わる。
そして、「考える」と「欲する」も交わるのだ。
人間はそのアンチパシーが動物よりも強いがために、自らを周りからくびることができる。
くびることだできるからこそ、わたしたちの自己認識という意識が生まれるのだ。
人間を細やかに見て取ると、わたしたちの「からだ」の働きが教えてくれていること、「こころ」の働きが教えてくれていること、そこから事実としてわたしたちに訴えてくるものがある。
では、なぜ人間はそうなったのか。
人間が動物とは違って、なぜくびられているのか。
そこも今後、掘り下げていきたいと思う。
⭐︎社会主義下の教育について。
今回はこのテーマも、目からウロコというか。
難しい問題ですが、きっとこれからも考え続けるテーマだと思う。
社会主義や共産主義が生み出すエネルギーは、世の中の弱いものが団結して革命を起こし、差別のない世界を作ろうという動きだと思うが、 そこに今まで、疑問も何も感じなかった。
ルサンチマン。
と先生が言った言葉がわすれられない。
怨念。不安。不満。
そこから見えるのは、満たされていない「わたし」
一人では力のない「わたし」
だから、団結するのだ。
そうやって、人間は様々な権利を獲得してきた。
でも、自分一人では「何もできない」ということも、同時に無意識の中に当たり前のように染み込んでいったのではないだろうか。
アントロポゾフィではどんな人間もひとりひとり精神があり、「わたし」の内側に「足りない」という認識はない。わたしは「ある」からはじまる。
社会主義下の教育について考えるとともに、では、どのような社会をアントロポゾフィは目指しているのかも同時にわたしの中で「問い」として浮かび上がってきた。
そして、私たち自身がどうこの社会をとらえ、どのように考えていくか、行動していくかまで、この問題と付き合っていきたいと思う。
この話をしていて、正直思ったのだが、シュタイナー教育をきっかけにアントロポゾフィを学んできたが、このような視点で、社会をみたことはなかったということだ。
現代社会が抱える教育問題の根底にあるものを、
アントロポゾフィはどう見ているのか。
ほんとうに今、そのことを真剣に考えてみたいと思う。
文:momo