母の愛
古事記をすると決まった時、あるイメージがわいてきました。
それは洞窟です。岩の冷たさ、硬い質感や湿った感触、香りまで伝わるような具体性をもって。
岩戸にこもっているときのアマテラスの視点かな?と思いましたが、アマテラスはとっくに岩戸から出ているのに、なぜ今も洞窟なのだろう、と疑問を感じていました。
そのときから半年が過ぎて、そこはもしかしたら黄泉の国かもしれない、と今は感じています。
一つ世界があった時から、男女に分離され、その男女が国々を産んだ果てにすれちがって憎みあい、それも乗り越えた先に生と死が生まれる。
生と死のある世界になって初めて夜と昼が生まれ、森羅万象が完成する。
古事記は、だんだんと分離していく物語ではなく、だんだんと生み出していく物語です。光を失って己を見失い混迷しても、再び光を取り戻す。その繰り返しで人は成長し、経験し、学びを深めていくのです。
その光は、自分自身の魂の光。生きる灯なのです。
それは、死という闇があるからこそ輝きます。
神々が上空にいるだけでは、なしえない人の営みなのです。
神が落ち、地の底に沈み、闇となって下支えしたから可能になったのです。
そこまで至れる神の愛。それは生み出した母の愛でもあります。
神が人を愛しているのは、人もまた神だからです。
愛されたいと望んでいたころのは私は、忌み嫌われ、憎しみをまき散らすような台詞がとても辛くて、なんでこんな目に合うんだろうと疑問でした。生むだけうまされて不幸の極みだと。
同情心でいっぱいでしたが、それは愛されることばかり求めていたからです。
でも、人は愛されなければ愛せないのでしょうか。
相手が何者であっても愛すること、愛するとはどういうことかを学ぶことが生まれてきた理由だと気づいたとき、穢れをすべて引き受けてでも愛することが女性の本質ではないかと気づきました。
女性は決して、磨かれる存在ではなく、輝きを与える存在なのです。
どこにいても、何をしていても、心の奥深くでは、生みだした存在と、ともに生きる存在のことを愛することができる、その女性のつよさ、しなやかさというものを感じ、それが音韻をもって伝わればいいなと、今は練習に励んでいます。
練習していく中で、声を合わせ、呼吸を合わせていくと、言葉でやり取りするよりもっと本質的で深い信頼感が、ともに練習する人たちに対して芽生えていることに気づかされます。
それは大和言葉だからでしょうか、言語造形だからでしょうか。
古事記という題材をもって、ともに集った人たちは、みんなで同じものを作り上げているわけではない、とわたしは思っています。
それぞれの役を生き、それぞれの古事記がある。
解釈が異なる、と書くと簡単だけど、生きてきた時間、感情、精神が個性を生み出すのです。それはとても尊いです。
それぞれの役に互いに生命を吹き込めあっているようだ、と感じます。
違うことは当たり前のことで、だからこそすべてが響きあい、重なり合って一つのより大きなものになるのです。
練習している過程から、とても成長させてもらっているなと、感謝の気持ちでいっぱいです。
導き手となってくれている諏訪さん、共に演じているみなさん、最後までどうぞよろしくお願いします。
文:izanami