大きな満ち足りた部屋にて
大きな満ち足りたベッドの上で私は目を覚ます。
19世紀風の絵画で散見される犬と寝そべった裸婦みたいに体を傾ける。
そして大きく上下するその胸にそっと手を当てて、頬に口付けをする。
太陽はもう八合目あたりに輝いていて、カーテンの隙間から差し込む陽光はほとんど床に散乱する下着やらセーターやらシャツやらを照らすだけだ。
ベッドサイドテーブルに置かれた二つのワイングラスには、赤ワインがほんの一口分だけ残っている。
ベットから体をなんとか起き上がらせて、なんとかキッチンに向かう。
グラスを手に取り、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出す。
どこかしらの山麓で湧き上がった水。
私はグラスにそれを注ぎ、喉を潤した。
備え付けられたカウンターテーブルの端には、大きなデキャンタ型のディフューザーが据えてある。
リードスティックとして葡萄の枝が刺さっているその様は、嫌味なほど洒落た匂いとともに部屋に甘い印象を植え付けていた。
壁際に配置された足付きのローチェストの上には、大きな平行脈の葉を持つ観葉植物とレコードプレーヤー。
The Girl from Ipanemaのドーナツ盤は針を落とされることなくそこで静止していた。
床に散乱した下着を手に取り、身につける。
姿見を見つめると、そこには魅力的な女が仁王立ちしていた。
魅力的な女は、仁王立ちという体勢においても魅力が溢れ出るものなのである。
この陽光のもとに晒されてしまっては、あらゆる社会的規範にそぐわない。
私は、彼の脱ぎ捨てたモヘアニットを上からすっぽりと被る。
鎖骨が大きく露出した姿は、その覆われた —つまり、オーバーサイズニットによって隠された— 部分による副次的な錯覚によって全体の妖艶度を格段に上昇させた。
この姿はあまりに完璧すぎたため、私の中でなんらかの変化が生じたみたいだった。
内的変化。
ちょうどチンパンジーがボノボと枝分かれる決定打となった突然変異のように。
突然の変化が感覚器官に影響を及ぼし始めたのだろう、私は視界で起きているあらゆる現象において我慢ならなくなってしまった。
その感覚違和が以降の行動原理となり得たし、すなわち大いなる自信を手にしたということでもある。
一人の女の子が自分の魅力に大いに自信をつけてしまったというある種危機的な状況下において、彼はあくまで安心しきって、すやすやと掛け布団を上下させている。
かのリッチ・ボーイよろしく、その男の自己陶酔は悲劇を引き起こすことになるだろう。
彼が今後自身の成功について歴史書を編纂するようなことになった時、私と関わったという事実は荘厳で不鮮明な隠喩とともに輪郭を欠いて描かれることであろう。
もしくは、彼は私という存在を活字に描き出すということはしないだろう。
あくまで彼の成功を描き出すのであればということだけれど。
大きな満ち足りていたはずのベットは、肩翼を失っていた。
彼の隣には、何かしらが真っ白いシーツに横たわっていたと感じさせる深い皺があるのみだ。
そこには質量が確かに感じられたが、生は一切感じられなかった。
あくまで何かしらがシーツに横たわっていたのであろうという事実だけが、彼の隣を埋めていた。
そのベットが再び満ち足りた思いで飛び立つことはない。
私は一度全てを脱ぎ捨てて、体を事細かく観察した。
美しい曲線に次ぐ美しい曲線。
計算され尽くしたようなその体は、真剣にギリシャ彫刻を思わせる。
私はカーテンの隙間からこぼれるクレタに注ぐ柔らかな光の束に足を潜らせた。
そんな軽い妄想を携えて、シャワーを浴びた。私には余裕がある。
ドライヤーで十分に髪を乾かしたあと、下着を身につける。
シャツに腕を通し、スラックスに足を通す。
その後メイクをして、姿見の自分にウィンクをした。
すると鏡の向こうの美しい女の子は、小さな子猫が飼い主をうるうるとした大きな瞳で誘惑するように、ウィンクを返してくれた。
アトマイザーをバッグから取り出して手首に香水を吹きかけ、そして素早く手首を首に当てる。
ムスクの香りがあたりにほのかに漂った。
ちなみに、香水を吹きかけた部位を擦ってはいけない。これでは匂いが飛んでしまうからだ。
一連の儀式を終えると、私から源泉のごとく溢れ出ていた魅力はメリハリを持った、すなわち社会的規範にそぐう形になった。
あとは然るべき誰かが現れて、リンゴを丹念に磨くが如く私を磨くのみである。ヤスリではなくもちろんシルクで。
リンゴをヤスリで磨く人などいるはずもないのだけれど念のため。
私はバッグからキーケースを取り出して、合鍵を外しレコードプレーヤーの傍にそっと置いた。
ジャケットを肩から羽織ると、私は最後に大きな満ち足りていたはずのベットに目をやった。
彼に覆い被さった布団は彼の呼吸によって上下し、彼の表情は安堵感で満ちている。
表情の機微な変化をも脳裏に焼き付けようと仔細に肌の滑らかな凹凸を観察する。
彼の唇には真っ赤なリップがまだらについていた。私は親指でそれを拭って、唇にキスをした。
私は踵を返すと、カラーレスコートを羽織ってマフラーを巻く。そして、玄関に一直線に進みヒールブーツを身につけ、それ以降振り返ることもなくその部屋を後にした。
背後で扉が閉まる音がする。
エレベーターを使って地上に降ると、そのままロビーを突っ切って外気に触れる。
私は大通りの方に足を進めた。
ブーツが小気味のいい音を通りに響かせる。
すると、大袈裟なほどの毛皮を首に巻いた女性が猫を抱いて私の横を通り過ぎていく。
この街はいつも私に景気がいいと錯覚させてくる。
そのまま白い息を切りながら進むと紀伊國屋が私を迎え入れる。エスカレーターを降りるとすぐに果物売り場が見える。
若い男がりリンゴを手に取り、くるくると回して品定めしているようだ。
何個か手にしてはその作業を繰り返している様子である。
私はその工程を注意深く見守った、というよりは立ち尽くしていた。
頭の中は視神経からの膨大な情報をなんとか処理しようと、星の数ほどのニューロン発火でごった返していた。
つまり、彼の第一印象を決定するのにかなりの時間を要してしまったということだ。
彼は美少年のようなチャーミングな顔立ちでいて、厚い冬の装いの上からでも力強さを感じる体躯をしている。
そして、これは完全な偏見であるけれど彼の趣味は競技ヨットといったところであろう。
今はオフシーズンだから、りんごの品評に熱中しているわけだ。
彼は慎重に一個のリンゴを選択する。
私の方に体を向けると、彼はシルクシャツの袖でリンゴを擦る。
暖房が嫌に暑く、コートの下が汗で蒸れる。
マフラーを外してコートのボタンをゆっくりと外していくと、少しではあるが新しい空気が私の肌を触れていく。
私は彼の目を見つめながら彼の傍を通りすぎ、そしてゆっくりとマフラーから手を離す。
最後に、然るべき声を待つ。
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