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長い夏の終わり
「mitsuyo,気をつけろ。日焼けは日本でmodeじゃないぞ」
太陽を顔に浴びて、仰向けに芝に寝転ぶ私にピノさんが声をかける。
「いいの、日焼けしたいの」
日曜日の午後、ヴァンセンヌの森の木陰で寝そべったりおしゃべりしたり、皆思い思いに寛いでいた。
JAZZフェスティバルは始まっていたが、暑いのに押し合ってまで観たくないという事で、ステージから少し離れた木陰に退避し、微かに流れてくる音楽を聴きながらダラダラすることにしたのだ。
泣くだけ泣いて少しくたびれた私に、皆が面白がって学校では教えないちょっと悪い言葉を教えてくる。
イケてない、どうしょうもない奴をgros nase、このクソ野郎をsac à merdeなど…(汗)
パスカルはsac à merdeよ!とヴェロ。
(サックア メルド、う○を詰め込んだ袋という意味…だそうだ汗)
少し陽が傾いて来て、誰が言い出したのかチュイルリー公園に移動することとなった。
夏の間は移動遊園地がチュイルリー公園内に設置されている
いい大人が綿アメなんか分け合いながら、縦に細長い遊園地内をぶらぶら歩いていると、向こう側から見たことのある男女がやって来た。
「あら、何してるの?」
女性の方は、Mヨシさんが手伝っていた日仏ミニ雑誌の編集長、そしてフランス好きな若い女性なら多分本屋で一度は手にするだろうフランス暮らしシリーズの本の作者、そしてピノさんの元奥さまでもあった。
当時ファッション誌でよく取り上げられていた日本人男性デザイナーの方が一緒だった。
御二方とも私と年齢は近かったが、何せ雑誌などでお見かけしていた二人なのでドギマギしてしまった。
ピノさんが皆でbalade(ぶらぶら散歩)してるだけだと答えると、彼らも交えてぶらつくこととなった。
ノスタルジックな園内で、一緒に射的をしたり、ぐるぐる回る空飛ぶブランコやゴーカート、安全ベルトの無いかなりの高さまで上下する乗り物で絶叫する私達を全く怖がらないE子さんがデジカメで写真を撮る。
移動中、デザイナーのAさんと少し話をした。
こちらに住んでるんですか?と聞かれたので、モンペリエ に短期留学して帰国するところだと答える。
「僕も最初に行った語学学校はモンペリエでしたよ、いい街ですよね」と返ってきたが、そうですねとは即答出来ずモゴモゴしてしまった…
誰かが射的でマーメイドの恰好をした中国製のバービー人形を当てた。
ヴェロがこれはmitsuyoが持って行って、と私に手渡した。
金髪でブルーのビキニと尾びれを着けて、魔法の杖を持っている。
(まだこの人形は何だか捨てられずに手元にある、でもこのnoteが終わったら手放そうかと思う…)
遊園地内で散々遊んだ後、オペラ座近くのカフェ・ド・ラペのテラスで休憩した。
日曜の遅い時間なので利用客が少なく、テラス席は私達しかいない。
オペラ座がライトに照らされ、暗闇の中白く浮かび上がって美しかった。
まだその時点では何だか気恥ずかしくて、ピノさんのex-wife、日仏ハーフのE子さんとは話せていなかった。
それにしても別れた元夫婦にしては冗談を言い合って何というか自然体である…。
カフェ・ド・ラペから当時活気のあった11区の方へ移動して、深夜営業してる店をぶらぶらしつつ探す。
アンティークなミシンが飾られてるカフェがまだ開いていた。
各テーブルの上におばあちゃんが使っていたような古いシンガーミシンが置いてある。
というよりもミシン台がそのままバーテーブルとして使われていた。
E子さんが、日本であまり見かけないから飲んでみたら?と言ってそこで初めてモヒート🌱を飲んだ(当時はさほど浸透してなかった)
向かい合わせでお酒を飲むうち、E子さんAさんにも遂にモンペリエの話をし始める私…
(ジョリス君やヴェロも居たので下手なフランス語を混じえつつ)
E子さんも仕事絡みでパスカルを知っている筈なのだが、待ったも掛けず、私の失恋話を辛抱強く聞いてくれた。
(日本語分かる方だから日本語で話してもいいんだけど、ここは全員の共通語で話したかった…)
覚えたばかりの単語を使い、
(私は南仏で酷い失敗をした、バカな事をした…)とパスカルの言葉を擬え(なぞらえ)ながら、それこそ思い切りクダを巻いた。
朝が来たら日本に帰るし、この時はもう二度とフランスには来ることは無いだろうと捨て鉢になっていた。
皆が神妙な顔で私のやらかし話を聞いている中、E子さんがそれは違うわ、と斬り込んだ。
「それ、失敗なんかじゃないわよ。C'est une expérience.L'expérience de la vie.」
聞き取れなくてポカンとしてると、
「えっと、l'expérienceて日本語で何だっけ。経験、そう経験よ。失敗じゃなくて特別な経験したの。L'expérience extraordinaire.
とてつも無い人生経験よ」
「経験…」
「そうよ」
E子さんは大きな目をキラキラさせて続ける。
「特別な経験は将来特別な何かになる。Ça doit être quelque chose de spécial!人生の宝物に変わるわ」
その時は彼女の言葉を聞き逃さないようにするのに一生懸命で、正直それほど響いてはいなかった…
ただ、(経験)(重要な、特別な)(宝物)
…といった言葉が耳に焼き付いた。
そうか、経験か…
彼女の迷いなく熱を持った話しぶりに、皆も頷いている。
気がつけば真夜中過ぎてかなりの時間が経っていた。キャンドルとランプだけの薄暗い空間で、ひとしきりお喋りしてから解散することになった。
Aさんはカフェからそう離れてない建物の前で
「ここ僕のアパートです。じゃ皆さんお休みなさい。à bientôt 」と消えて行った。
女性陣はタクシーを拾う。
E子さんはタクシーに乗り込む前にこちらを振り向くと「頑張ってくださいね」と微笑んだ。
私も「はい、」と笑顔で答えた。
ヴェロはタクシーに乗る前にお別れのビズをした後、
「mitsuyo,どうかフランスを嫌いにならないでね。出来たらこのままフランス語も続けてちょうだい。Bon retour au Japon(気をつけて帰ってね)」
と言ってくれた。
ピノさんジョリス君が既に歩ける距離だったキャロルのアパートまで送ってくれた。
もう明け方が近かった。
アメリカ、NYにショッキングなテロが起きた年のことだった。
それから3年後、パリを再訪してキャロル、ピノさん、ヴェロやジョリスにも再会したが、それきり彼の地は踏んでいない。
日本に戻り、10年近くフランス語も続けていたが、思うように仕事にも反映出来ず(皮肉にも販売員として名前だけはご立派なフランス系ブランドを何ヵ所かループしていくことになる…)
懲りずに在日フランコフォンと恋愛しては手痛い目に遭い、挙句フランス語を段々と避けるようになって行ってしまった…。
でも、あの夏のことはずっと特別な夏として心の奥深くに仕舞われていた。
触ってはいけない特別な金庫のような場所に…
このままほったらかしなままではいけない、いつか金庫から出して埃を払ってあげたかった。
そして気が付けば、塩っぱい思い出が時間のおかげで何だか眩しい特別なものに熟成されていた(あくまでも自分比だけれど…)
人から見たらなんて事のない、若いひと夏の出来事だと思うが、E子さんがあの夜言ったことは本当だった。
なるほど、苦い経験が時間と共に特別な何かに昇華されているのに気付く。
noteの上に引っ張り出して来て良かった。
全て私という人間を構成する重要な出来事だったのだ。
南仏のあの人にも私の人生劇場の配役を全うしてくれたことに今では感謝したい。
もう私は大丈夫。
長い事胸に刺さっていた棘は抜けて、キラキラと冬の外気に溶けて行く。
これで私のモンペリエの長い夏のお話はおしまい。
長いことお付き合い頂きありがとうございました☆
fin