外向けのプロフィールには載せてない事 Part 1.5 〜運命の分かれ道編〜
少し時を戻します。(話が前後しててすいません!)
僕がそもそもアメリカの大学に進学をしようと決めたきっかけが、たまたま見かけた国連軍に感銘を受けた話は7月29日に書きましたが、一つ肝心な事を書き忘れていました。
それはなぜ僕が海外に目を向けたかという事です。実はここが運命の分かれ道だったのです!(←Facebookで記事を読んでくれた長い付き合いの友達、大塚利恵ちゃんの「いいね」で思い出さされたのでした。書き忘れていてごめんなさい。)
あれは僕が18歳の高校3年生の夏でした。強豪バレー部を辞めてしばらく経って、ステーキ宮のバイトにようやく慣れた頃でした。相変わらず時々継父が酒に酔って暴れたりしていたので、嫌気をさした兄が別居を始め、しばらく兄と二人暮らしをしていました。相変わらず勉強嫌いで(っといか超文系の頭なのに工業高校の授業は本当に苦痛以外の何物でもないと感じていて)毎日友達に会う事と、放課後のバイト先で少しながら女の子と話せるのが唯一の楽しみでした。
当時、もう一つ新たな苦痛がありました。それはバレー部を辞めてブラブラしている僕の事を、担任以上によーく知っていて気にかけていてくれた校長先生、川上千尋先生が僕が誤った道に進んでしまわないように、(今では死ぬほど嬉しい心遣いなのですが)いろんな無理難題を僕に与えてきたのです。
この先生、実はバレーボール未経験でしたが何故か茨城県高等学校体育連盟バレーボール専門部の部長をしていました。言ってみればバレー部の鬼監督の上司ですからね。当時の僕らにとっては神様の上の存在です。でも何故か僕を気にかけていてくれて、時々「山崎は小さいのに頑張ってるな。負けんなよ!」なんて励ましてくれたことも何度かありました。そういう役職を持っていたせいで、ただでさえ忙しいのに僕がバレー部にいた頃からよく練習を見にきたり、試合の度に開会の挨拶などをしている偉い先生でした。
その彼からの無理難題。先ず一つ目は、2年生の終わり。僕が部活やめて間もない頃にいきなり校長室に呼び出された時の会話。
先生:「来年の生徒会長に立候補するものがいないので山崎に任せようと思う。やってくれるな?」
僕:「。。。汗」(←心の中では1000%やだー!と思ってても言う勇気がない。。。)
先生:「なんだよ〜!こういう時に「はい、もちろんです!」ってサッと言えるようじゃないと出世出来ねえぞ〜!出世してお母さん楽さしてやんえーとな。」
僕:「あ、はい。あの〜、でもなんで僕なんすか?」
先生:「山崎は覇気があるからだよ。先生な、山崎がバレー部に推薦で入ったときからずっと見てっからお前の性格良く知ってんだよ。お前なら生徒会任せられる。先生がちゃんと応援するからやってくれるな?」
しかし、この時点で僕は大きな問題を抱えていた。それは、うちの高校は歴代の生徒会長が野球部の甲子園の予選の応援団長を努めなくてはいけない事になっている。全校生徒720の前で炎天下の中、学ランを着て大声張り上げるのだけは避けたかった。
バレー部をようやく辞めて手に入れた高校時代の青春(フリーダム)を弱小野球部のために無駄にはしたくなかった。
そして会話は続く。。。
僕:「先生。僕バイト始めたので放課後に応援団の練習はちょっと難しいです。応援団長だけはちょっと。。。」これを言い訳に生徒会長を逃れたかった。
先生:「だ〜いじょうぶだよ。お前が応援団長はやりたくないかと思ってもう機械科のS君に声かけてあるから心配すんな。Sは去年の(応援団)副団長で慣れてるから。ついでに生徒会の副会長もやってくれ事になってるから、よろしくな!」
僕:「え、そうなんですか。」
先生:「じゃ、先生次の会議があるから。詳しくは教頭先生に聞いてくれ。」
はめられた。と思った。その年の4月1日から俺は生徒会長になった。はっきり入って重かった。でも、カラオケでB'zを歌う事以外唯一の特技であったバレーボールを辞めた自分には、特にこれからやりたいことも特段無かった。バレーボールという自分の中の大きなアイデンティティーを失った、ほぼ空っぽの自分の殻を何かで埋めなくてはいけないと、なんとなく思っていて、これからどうやって生きて行こうか不安に思っていた矢先の出来事だったから、あえてその場で断らなかったのかもしれない。
彼の無理難題はまだ続いた。
夏休みの直前に、英語の矢口先生と川上校長に相談があると呼び出されて。だいたいこういう時は、テストの結果が悪かったか、外でやった悪いことがバレたかのどちらかである。(この辺はやたら鼻が効く高校生であった。)
また、あの(生徒会長にいきなり任命された)校長室のソファーに腰をかけると、お腹を空かせた子犬のような、やや上目遣いで矢口先生(女性)が相談事を話し始めた。
矢口先生:「先生ね。今度茨城県の英語スピーチコンテストの審査員を務める事になったんだけど、審査員をやっているのにうちの学校から一人もスピーチコンテストに参加しないっていうのはちょっと寂しいというか、かっこ悪いのよ。」
僕:「英語スピーチコンテスト? そんなのあるんすか。じゃぁ英語の得意なMとかKとかに聞いてみますね。
矢口先生:「あ〜。二人にはもう聞いたんだけど、どうしても出たくないっていうの。それと、コンテストは大きな会場でやるので、堂々としてて声が通る生徒がやっぱり良い結果も残せるのよね。S君もM君も声小さいし引っ込み思案だからね。あんまりこう、いまいち期待できないのよ。」
僕:「へ〜。。。」(因みに、自慢じゃないけど英語の成績は5段階中2か3しか取った事がない。しかも、今まではバレー部だから大会前に落第しないように優遇されて、先生が色をつけてくれての2か3である。)
矢口先生:「それで、どうしようかな〜って困って、川上(校長)先生に相談したら、山崎だったら声も通るし、バレー部で大きな試合にも出てて物怖じしないから、是非やってもらいたいって言ってくださって。」
(ここでようやく)
川上先生:「まぁ、お前にとってはこれが高校最後の夏だろう。(バレー部の)同期はインターハイに向けて猛練習してんのに、自分だけ悠々と遊んでるわけにも行かねえべよ。一回やってみて、全然ダメだったとしても、こういうのはいい経験になるからやってみろ。な?」
僕:「うちの学校から今まで出た人いるんですか?」
矢口先生:「それがいないのよ〜。でもね、有利なこともあって、普通の学校だったら校内予選があって学校代表に選ばれてから地区大会に出て、そこで上位6位に入らないと県大会に出られないのよ。でも、あなたはもう学校代表決まりだからいきなり県北大会に出られるのよ?」
どこが良いことかさっぱりわからん。。。
とまぁ、もう先は読めましたね?そう。生徒会長山﨑満広、人生初の英語スピーチコンテストに出る事になりました。はい。
その日から英語のスピーチのための作文、翻訳、発音練習用にカタカナをふった原稿の準備を矢口先生と作り、当時の親友二人が助っ人にきてくれて夏休み返上で毎日のように学校に通いスピーチの練習をした。夜は週に二回通っていた英会話の先生(オランダ人)にお願いして、彼が読んだスピーチをウォークマン(そう、当時はまだカセットテープを聴けるウオークマンがあったのさ)に録音してもらって、電車の移動中とかに聴きまくった。
3週間もして、ようやくスピーチの暗記はできたものの、何度練習しても the とか v とか fの発音やイントネーションに納得いかなくて、大変だった。
そしてようやく迎えた県北大会当日、めっちゃくちゃ緊張して1箇所ミスしたにもかかわらず、なんと6位に入賞! 1ヶ月後の県大会に出場する事に!!マジか!こんな事があってよいのか!?というくらい結果にびっくりしたが、ここまできたらやるしかないと覚悟を決めた。
矢口先生にどこを直せば県大会でも入賞できるようになるか、細かいところまで聞いて、また練習を再開。オランダ人の先生にも新たに自分の癖やアクセントをつける部分を大袈裟に録音してもらって、必死で練習した。県大会前の2週間は、そのテープを聴きながら、バイトが終わってから静まりかえった近所の中学校(引っ越ししてるから自分の出身校ではない。)の校庭で大声で夜11時くらいまで発音練習をした。今考えると近所の住民はさぞ気持ち悪かったろうと思うけど、その時はあそこでしか練習できない環境だったのでから仕方ない。
そして、いよいよ県大会当日。参加者名簿を見ると当たり前だが普通高からの参加者がほとんどで、しかも有名進学校ばかりだ。工業高校からの参加者は俺一人だったと思う。くじ引きでスピーチの順番をきめたのだが、何故かまさかの一番を引き当てて、「終わった」と思った。くじ引きの前に矢口先生から、だいたい一番最初の人は緊張してうまくいかないか、うまくやってもよっぽど印象に残らないと忘れられて上位に食い込めないと聞かされていた。
実は、僕がこの大会にこんなに必死に挑戦するのにはもうひとつ理由があった。それは地区大会の後、先生に県大会の上位3人の生徒は漏れなく「世界ふれあいの翼」という海外研修旅行に行けると聞いたから。それまで日本を出た事がなかった。そんなお金もなかった。それが、もしかすると県が費用を出してくれて海外に10日間行けるというのだ!そして今年の行き先はロンドンとパリを含むヨーロッパ研修らしい。
そんな淡い夢を胸に抱きながら引いたくじ引きはまさかのトップバッター。どうする?もうこうなったら、どうせダメ元で始めたのだから、自分のベスト以上を出して最高のパフォーマンスを見せるしかない!!!
開会の挨拶の後、数分でもう自分の出番が来た。会場を見渡す。制服とスーツが100人くらいズラ〜と並んでステージを見つめている。みんな出来の良さそうな顔つきだ。俺みたいな偏差値40以下の工業高校から来た輩にはとても似合わない雰囲気。でもステージの上では偏差値も学校の評判も関係ないと先生は言ってくれた。思いっきりやってやるしかない。
4分のスピーチ。制限時間を超えるとチ〜ンと静まりかえった会場にチャイムが響いた。最後に15秒くらいオーバーしてぼくのスピーチが終わり。取ってつけたような拍手をもらい、一礼してステージを去った。
ステージ袖で待っていた矢口先生が、満面の笑顔で迎えてくれた。「すっごくよかったよ〜!よく頑張った。あとは結果を待つだけね。」
その後何人かのスピーチを聞いたが。自分よりも上手いネイティブ並みの奴が二人続いた時点で嫌気がさして会場を出た。午後4時ごろになって表彰式のために会場に戻る。ソワソワと矢口先生が入り口で僕を探して待っていた。「山崎、もしかしたら入賞したかもよ。なんの賞かは分からないけど、一応前の方にすわってて。」
訳がわからなかった。自分より美味かった奴らは何人もいると思ったのに、俺が入賞。。。?
そしていよいよ発表。3位は県内トップの公立校である水戸一高のネイティブなみのスピーチをした、それはそれは賢そうな女子生徒に送られた。彼女が3位だったらこれ以上俺の入賞なんてあり得ない、そう思って敗北感を感じ初めて、床を睨み、悔しさで拳を握りしめた瞬間、自分の名前がが聞こえたような気がした。顔を上げると矢口先生が審査員席から俺を見ながら立ちなさいと大袈裟なジェスチャーをしていた。え。。。?マジか?これは夢か?
急いで立って壇上に向かうと、どこかのえらい先生が1メートルはある大きなトロフィーと賞状をくれた。「よく頑張りましたね。おめでとう。」
うわーーーーーー〜!!やった!おれ県で2位になったちゃった!信じられない。宝くじで5億円当てたような気分(←知らんけど!)だった。It literally felt like I was on top of the world!よ。
っというわけで、その年の11月に初めて海外に海外に行く事になりました。(世界ふれいあの翼は県内から選ばれた高校生20名が参加する研修旅行で、(確か)3人は英語のスピーチコンテストから選ばれて、残りは各校から推薦され県の教育長が作文や面接審査をして選ぶ事になっていた。)
詳しく書くと長くなるので端折りますが、この時にイギリスのロンドン、オックスフォード、フォークストーンやフランスのパリや茨城県の姉妹県のルソンヌ県を10日間くらいで巡って、何泊かホームステイもさせてもらって。それはそれは特別感のある素晴らしい体験を経たわけです。茨城の勉強嫌いでサッカーとバレーボールしか熱中できなかった田舎モンが、異文化に触れてデカイ世界の存在に気付き、今までの自分がいかにちっぽけな世界で生きてきたかに気づかされたのでした。
また、その時に出会った仲間たちも素晴らしかった。それぞれ優秀で、みんな俺よりも全然偏差値高いけど、ツンケンせず仲良くしてくれたし、あの時同じ体験を共有できた同士ができた。そんな気がした。
あれから25年以上経つけど、facebookのおかげで未だに何人かとは繋がっている。アメリカに24年いて中学と高校の同窓会に一度も出た事がない自分にとってはかけがいのない友人達だ。ありがとう。これからもよろしくね。
平成29年11月26日。茨城県常陸太田市にある太田一高の桜の巨樹と一緒に。(出所:https://sakuraibaraki.localinfo.jp/posts/3691513/)
そして、僕の人生の恩師、川上千尋先生は、教員引退後に以前から趣味とされていたの巨樹の研究を長年され、幸せな余生を暮らしていたが、僕が去年帰国して直ぐ、母から川上先生が危篤状態にあると連絡がきて、亡くなる前に一度だけお見舞いに言った。
看病していた川上先生の奥さんと25年ぶりくらいにお会いして、眠っている先生に挨拶だけさせてもらった。その時、もう何ヶ月も寝たきりで目を開けていなかった先生が、ほんの数秒だけ目を開けてくれた。奥さんが「ほら、あんた勝工の時の山崎くんがわざわざ見舞いにきてくれたよ。」と体を揺すった矢先だった。その数秒間、先生と目が合っている間は何だか先生と話をしているような錯覚に陥っていた。たった数秒だけど通じたような気がした。帰りの電車で涙がポロポロ落ちた。先生がもっと元気なうちに会って、もっともっと心からお礼を伝えたかったと思うと涙が止まらなかった。
その数日後に、先生は息を引き取った。言葉は交わせなかったけど、何となく先生が僕のことを待ってくれてたのかもしれないと思えた。亡くなる前にほんの少しだけでもコミュニケーションが取れてうれしかった。川上先生、先生は僕の命の恩人です。天国でも巨樹を眺めながら楽しい日々を送ってください。本当にありがとうございました!
最後まで読んでくれてありがとう!
つづく。