書き散らす、ということ
書き散らすという行動が私にとって、「どんなプラスになるか」は定かではないが、とりあえず好きなことをただダラダラと書き散らすために設置してみ
た
ラジオトークと同じで日記のような、詩のような、何かそれ的なものをただ書きたいと思った
ラジオトークに関しては自分のトークの練習であるが、これは少し違う
これは何かに対する反抗で、誰かに対する当て付けで、私という存在と向き合いつつ、過去との別離を図ろうとしているところもある
ダラダラとBluetoothキーボードを叩いているのも楽しい
自殺未遂後の、病院の大部屋のベッドの上で、何か前向きになろうとダラダラと文を書く
本当は絵を描くつもりだったが、お気に入りのシャーペンでも大好きなデジタルでも描こうという意欲が湧かない
恐らく、これは重症なんだと思う
自殺未遂までしているのだから、そりゃ重症だろうが、というのを置いておいたにしても、好きなことができないなら死にたいと言っていた私が、好きなことに対して興味が湧かなくなるのは相当のことなのだ
自分でやっと気付いた
私は、絵が描きたかったはずだし、芝居がしたかったはずだし、歌が歌いたかったはずだし、ウクレレを弾きたかったはずだし、美術館でボーッと絵を眺めたかったはずだし、大きなお風呂でのんびりしたかったはずだし、好きなことがたくさんあって、全部やりたかったはずだ
今は、こうして急に文章を書き散らすことしかしたくない
Twitterの方だって、ダラダラと常駐している
久しぶりにツイ廃モードだ
何か言葉を吐き出していないと押しつぶされるような気さえする
いや、きっと気のせいなのだけど
だけども、私は書きたいから書く
特にオチもなければ面白みもない吐露かもしれない
誰かに宛てた手紙かもしれない
不意に浮かんだ歌詞かもしれない
また、絵を添えた詩かもしれない小説かもしれないし、絵本かもしれない
それはわからないけれど、ただ私はここに書く
死に損なった私が、生き直す話