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聖書はそう言っているのか?(2)ローマ1:26~27

ちょっと間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
「聖書はそう言っているのか?(2)」は、2022年11月6日聖日礼拝メッセージで語らせていただいておりました。YouTubeにアーカイブ動画もアップされていますので、ご覧ください。(←クリックすると視聴できます。)

テキストは、以下の通りです。(私の説教原稿と実際の礼拝説教をもとに、担当の教会員の方が書き起こしてくださったものです)」

聖書箇所 ローマ1:26~27(聖書:新改訳 2017)
26こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、
27同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

説教 聖書はそう言っているのか?(2)ローマ1:26~27

説教題に書きましたように、「聖書はそう言っているのか?」
で、今日は、ローマ人への手紙1章の26と27節であります。
聖書はLGBTQ(性的マイノリティ)をどのように見るのか?

なぜ、藤本はいきなりLGBTQの問題、性的マイノリティーの問題を扱うようになったのかは、一番最初の時に少し話をしました。
それは10/9のYouTubeの礼拝、或いはホームページを見ていただくと、よく分かると思いますけれども、
私(藤本牧師)は教会全体に対して、一つの願いを持っています。
それは徐々に明らかにしていくと思いますけれども、なぜ?なぜ?と思わずに、ひとつおつき合いいただきたいと思います。

多くの教会は同性愛を否定的に思う感情がある、と言っても過言ではないと思います。
ですから、現代のLGBTQの方々は社会で苦しみますが、自分がそうであるということを家庭で言うことはほぼ不可能ですね。
それがまして信仰の家庭であると、難しいでしょう。
教会の中で牧師先生に言いますと、一般的に牧師はこう言います。
「わかりました。でも他の方々には仰らないでください」っていうのが、私は一般だろうと思います。

その苦悩というのは、まるで自分の存在意義を――職場にあって、家庭にあって、教会にあって――消さなければいけない程の苦悩だということを、
徐々に皆さんに分かっていただくように、
私はまず小さなパンフレットを、12月号の「天の窓」に皆さんに同封しますので、それを読んでみてください。
私は、高津教会はそのような教会になりたくないと願い、聖書の真理に基づいてお話ししているつもりです。

礼拝説教ですから、(この問題で)大々的にシリーズを組むわけにはいきません。
扱うのは、わずか3回で今回は二回目。
前回は旧約聖書のソドムを中心にお話をしました。
今回は、新約聖書のローマ人への手紙を中心にお話をいたします。

実は新約聖書には、もう一つ有名なコリントの手紙第一の6章9~10節があります。
ちょっと映しますので、見ていただくと分かるんですけれども、ここにこういう風に出て来ます。
【画面:Ⅰコリント6章9節と10節の「神の国を相続できません」に緑のハイライト、9節「男娼となる者、男色をする者」に黒ペンの傍線】

<Ⅰコリント6:9~10>
9あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
10盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

私(藤本牧師)は、この箇所に関しては、キリスト新聞に論説を投稿しています。
ですから、「キリスト新聞、藤本満、LGBTQ」――で検索されますと、私の顔写真と、私の論説が出ていますので、それを読んでいただくことによって、
(※「男娼となる者、男色をする者」の訳の問題点を指摘しています。)
とりあえず今日は、ロマ書に集中したいと思います。

私は昨日、どちらをやろうか? 午前中まではコリントをやろうと考えていました(笑)。
午後に、ロマ書に変えた時に、スタッフの方に「聖書の明日の個所は、第一コリントの1章の26と27です」というメールを出してしまったんですね。
大変申し訳ないことをしました。
章の名前は第一コリント、節の名前はロマ書で出してしまったので、ほんとに申し訳ないことをいたしました。
でもそれ位、この二つの個所というのは、どうしても外せません。

では、ロマ書の1章を見ていただきたいと思います。
ロマ書の1章に入る前に少し話をします。
前回の説教の最初に、アメリカの同性愛に関するドキュメンタリー映画、『For the Bible Tells Me So』(なぜなら、聖書はそう言っているから)を紹介しました。
娘の同性愛傾向を受け入れることができない父親が、言うんですよね。
「なぜなら、聖書はそう教えているから」
『For the Bible Tells Me So』というのは、(福52)主われを愛す、の有名な一フレーズです。
子どもでも大人でもみんな知っている讃美歌の一フレーズを用いて、
「いや、あなたのことは受け入れることができない。聖書はそう教えているから」なんですね。

同じ映画の中で、息子の同性愛傾向を受け入れられない母親が出て来ます。
敬虔で信仰深い母親は、息子に諭して言うんですね。
「あなたね、聖書の言葉は消すことはできないのよ」と。
そこで母親が採り上げた聖書の箇所が、今日ご覧いただくロマ書1:26~27です。
それをもう一度読んでおきたいと思います。映しますね。

【画面:ロマ1章26節「こういうわけで」に黒ペンで囲み、「恥ずべき情欲」「女たちは~替え」と27節「男たちも~燃えました」「恥ずべきこと」にオレンジのハイライト】

<ローマ1:26~27>
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、
27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

ちょっと抜き出して、全部読むことができないので、その個所を皆さんに見ていただきました。

ローマやコリントにいる教会に宛てて、パウロが手紙を書いているわけです。
その時に、私たちはどうしても理解しなければいけないことがあります。
それを、ほとんどの私たちは理解していない、という所からお話を始めます。
どうしても理解しておかなければいけないことがある。

1)それはパウロが指摘している、ギリシャ・ローマ(異邦人)の性の乱れです。

ギリシャ・ローマという時、パウロは異邦人という言葉を使いますけれども、異邦人の性の乱れです。
エペソの4章の18節ですね。これも見ておく価値は十分にあるんですけれども、映しますね。(※17節から読まれる)
【※パウロが異邦人の真似をしてはいけない、と教えているときに、性の乱れを挙げてきます。】
【画面:エペソ4章17節「もはや~歩んではなりません」にオレンジのハイライト19節全文にピンクのハイライトの傍線】

<エペソ4:17~19>
 17ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
18彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。 
19無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪(むさぼ)るようになっています。

というこの異邦人(17)というのは、これはコリントやローマが存在しているギリシャ・ローマの世界で、実はそこには特有な問題がありました。
日本でも文献は山のように出ています。
パウロは好色、汚れ、情欲という表現を使っていますけれども、実は性的な乱れであっても、
古代ギリシャ・ローマの文献、それから器に描かれた絵に至るまで、膨大な資料を見ていきますと、
今日の私たちにはあまり理解できない、特殊な傾向が浮かび上がってきます。

それが、「少年愛」です。パイデラスティア、日本語ではペデラスティアというのが多いんですけれども、「少年愛」という特有な傾向が出てまいります。    
自由市民の成人男性が、市民の少年、奴隷の少年を愛し、欲望の相手をさせていたという長い何百年もの歴史が、ギリシャ、そしてローマに引き継がれて存在していました。

どのように「少年愛」は教えられ、実践されていたのか? 少し雑ぱくに並べてみることにいたします。
礼拝にはあんまりふさわしくないのですけれども、少し耐えていただいて、
パウロが直面している異邦人世界が一体どういうものであったのか、というイメージを持っていただきたいと思うんですね。

ギリシャ文化は、男らしさを強調します。これを「ジェンダー」と言うんですが、
勇敢であること、頼もしいこと、自分を律することを強調いたします。
すると、女性を愛して恋愛に溺れてしまうということは、ギリシャ文化では、男らしさを失うという意味で、異性愛は警戒されました。
女性を相手にする時には、子どもを作る時に限る、と教えている哲学者もいます。

古代ギリシャのアテネでは、経済的に余裕のある成人男性、たとえばソクラテスがそうでありました。
教育目的で美少年のパトロンとなります。可愛がることが尊ばれてきました。

戦士社会のスパルタでは、戦士として訓練を受ける青年が、少年愛の対象となることは、ままあったどころではなく頻繁にありました。

少年愛は、異性愛に求められるような、妻から来る要求ですとか、家族のしがらみですとか、そういうものが一切ありません。
ですからどちらかと言うと、高尚な愛と見なされてきました。
少年を経済的に支え、可愛がり、愛を注ぐ対象としています。

もちろん、「少年愛」の背後に潜んでいるのは、往々にして成人男性の貪欲な性欲でありました。
パウロと同世代のギリシャ詩人・哲学者セネカは、宴会で見る少年奴隷の悲惨な実態を描いて言います。
ちょっとセネカの文章を読みますね。

「少年たちは女の衣装を身に飾って酒を注いで回る。彼らは、少年期を脱することが許されず……顔の毛をそり落とされたり、毛根から抜き取られる。この奴隷は夜通し眠らずにいて、夜を主人の酩酊と色欲の相手となる。」
――ここまで――

キリスト教徒を迫害したことで有名な皇帝ネロは、少年奴隷スポラスを愛し、少年の発達が進むと彼を去勢します。
そして最終的に、スポラスを自分の妻とします。
それは暴君ネロだから許されたのか?そういう暴挙だったのか?
いえいえ、古代ギリシャ・ローマの性文化には、そういう背景がありました。

「少年愛」だけではありません、映画にもなりました皇帝カリギュラ、彼は性の狂宴で有名ですね。
日ごとに宴会を開いて、一対一、一対多数、多数対多数、男対女、女対女。
映画を観ますと、限りを尽くして、恥ずべき行為を楽しむ人々でありました。
皇帝だけでないです。

私(藤本牧師)が申し上げたいのは、パウロがここで(ロマ書1章)26節、27節に込めている痛みがあるわけですよね。
教会の背後には、異邦人社会の実態が今も存在しています。
つまり古代ギリシャ・ローマの性文化が今すぐそこにあるわけですね。
よく言いますよね――「同性の性行為を聖書は禁止している。なぜなら、ロマ書1章26,27に明確に書いてある。男が男と、女が女と、というのは道ならぬ道であって、特別に性的な堕落として酷いものだ、という風に批判されている」と。
勿論パウロは旧約聖書の背景を持っていますので、前回学びましたあのレビ記の禁止事項も頭にあったと思います。

でも言えることは――パウロが批判しているのは、今日の「LGBTQ」の方々ではないです。それはもう明らかですよね。
古代ギリシャ・ローマの日常に染みついた、性文化全体を彼は批判しています。
つまり、今日の私たちがロマ書1章の26と27を読みますと、
「ああ、なるほど、昔から同性愛の方々っていうのは、このように断罪されているんだ」と、このように思い込んでしまうんですね。

でも、今日の同性愛というのは、異性に対してではなく、同性に対して恋愛感情を持つ、独自の性指向――セクシャル・オリエンテーションと言いますけれども――異性ではなく、同性に対して自分の性の思いを抱くという、特殊な傾向を持った人々です。
パウロも手紙の相手である読者も、そんなことは全く考えていません。
考えているのは、異性愛者の、つまり性的マジョリティの者たちの、飽くなき情欲のゆえにあらゆることをしでかす、というローマの日常です。

フランスの哲学者のミシェル・フーコー、「性の歴史」という分厚い本を書いていますけれども、
その性の乱れで最たるものが、古代ギリシャから一貫している、歪んだ「少年愛」だという風に記しています。

もちろん、古代のギリシャ・ローマ世界にも、今日のようなLGBTQの(性的マイノリティ)の方々は私はいたと思います。
今日初めて生まれた現象ではないと思います。
でも、パウロは殊更そういう人たちに、性的マイノリティに焦点を当てて、批判しているのではない。
彼が批判しているのは、古代ギリシャ・ローマ全体の、性的マジョリティの方々の異常な行為ですね。

異性愛者でありながらも、自分の妻を愛するということは、自分の理性を失うことだということで避けて、
自分の妻を愛するのは、子どもを儲ける時だけだと限定して、
自制心を働かせずに、欲望に身をゆだねて、少年をもてあそび、
もてあそぶ理由づけをしっかりと持って、
或いは娼婦街に足を向けて、男性を相手に欲望を満たしていく人々が、
教会の背後にワンサカいるわけですよ。

古代ギリシャ・ローマの哲学者には、それを批判した者たちもいました。
しかし、ここでパウロは、旧約聖書に基づいて批判します。

ローマ人への手紙、ちょっと聖書を見ていただきたいと思いますが、物事はどういう風に始まったのか?
(ロマ書)1章、ここに始まりますね。(※指で押さえながら19節から読み進める)
【画面:ロマ書1章19~23節 特に印はないが、《 》は原稿にある強調点】

<ローマ1:19~23>
19神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、
(***ているにもかかわらず、と続け、21節に続く)・・・
【※はじまりは、真の神に背を向ける高慢です。】
      
21彼らは《神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず》、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22《彼らは、自分たちは知者(***ギリシャ人・ローマ人は哲学者と詩人が多いですよね、と説明)であると主張しながら愚かになり、》
(***でも実はその心は偶像崇拝へと向かいます、23節へ続く)

23《朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。》

【※古代ギリシャ・ローマ全体を包む偶像崇拝です。】
【その結果として生じた、「全般的な性的堕落」が指摘されています。】

【画面:ロマ書1章24節「そこで」を消してそれゆえと書いてある、「心の欲望~引き渡されました」「彼らは~辱めています」にオレンジのハイライト】
(***24節、ここから出て来るんですね、と説明)
 24そこで(***それゆえ、と言い直して)神は、《彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。(***その汚れというもの――と説明)そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。》

そして、その結果として、男は男、そして女は女というようなとんでもない出来事に発展していくんだ、ということをパウロは言っているんですね。

つまり申し上げたいことは、私たちの世界では、「性的マイノリティー」という風に申し上げますけれども、
パウロはマイノリティーに話しているのではない。
ギリシャ人・ローマ人の全体、マジョリティーに話しているんだ、という自覚がないと、これ、現代の人たちにそのまんま当てはめて、
自分の存在を社会で、家庭で、そして教会でも消さざるを得ない苦しみを、教会は彼らに強いてしまうんですね。
(※ここの聖句ロマ1:26~27を指で押さえて、見解を語る藤本牧師)

【画面:ロマ書1章26節「こういうわけで」に黒ペンの囲み「恥ずべき情欲」「女たちは自然な関係を自然に反するものに替え」27節「男たちも~燃えました」「恥ずべきこと」にオレンジのハイライト】

<ロマ書1:26~27>(※ここは読まれないが、画面は聖書)
 26こういうわけで、《神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。》すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、
27同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

【※それは古代ギリシャ・ローマ全体を包む、飽くなき情欲のことです。
「少年愛」を基本として、狂いに狂った性的秩序をパウロは批判しています。】

私(藤本牧師)、伝統的な教会の先生に、ある日言われたことがあります。
「教会は、LGBTの方々も、受け入れられる教会になりましょう」と言ったら、
その伝統的な、非常にしっかりした先生が、
「いや、先生、その言い方は間違っていると思います。既にいらっしゃると思いますよ」と。
「これからはそういう方々にも門戸を開き、受け入れられる教会になりましょう」ではない、「既にそういう方々はいらっしゃるよ」と。

博報堂がアンケートを取ったのは、2018年でしたかね。
60歳までの成人男女にアンケートを取りましたら、13人に一人は自分の性のアイデンティティーに不安がある、という回答でしたよね。
それを高校生大学生に行きますと、8人か9人に一人は、自分のアイデンティティーに不安がある、という回答を出して来られます。
ですから、私たちは「そういう方々は私たちの教会にはおられない」ではない。
平良愛香(たいら・あいか)先生の本の題名を紹介しました。
「あなたが知らないだけで、神とLGBTQの方々は、あなたの直ぐそばにいる」ということは現実だろうと思います。

2)次に、ローマ人への手紙のこの箇所を解釈する時に、様々に論議される箇所があるんですね。――(※「自然に反すること」という表現)

【画面:ロマ書1章26節「こういうわけで」に黒ペンで囲み「恥ずべき情欲」「女たちは~反するものに替え」27節「男たちも~燃えました」「恥ずべきこと」にオレンジのハイライト】

これは今日尽くすことができませんので、一応紹介しておきます。
パウロはこういう言い方をします。見ていただいて、
26節の真中に「すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、」と。
27節でも「自然な関係を捨てて」とありますよね。

この「自然とはどういう意味だ?」で、学者によって随分論争があります。
私(藤本牧師)は、普通の牧師ですから、
「自然というのは、創世記に神さまが定めた男と女という秩序のこと」をパウロは指しているんだろうなぁと思っています。
「反する」(26節)という言葉は「超える」という風に訳すこともできます。
私はどちらかというと、そちらの訳を好みます。
自然に反するではなく、自然を超えていくという。
特にパウロがここで批難しているのは、情欲のゆえに、異性愛のマジョリティーがその自然のあり方を超えて、本来神が定めたのとは違う秩序の世界へ飛び越えていく、という意味で「超えて」の方がしっくり来るなぁと思います。

さて、それらの論議は伏せて、別の角度からこの問題をお話しして、時間通りに終わりにします。

1980年、イエール大学の古典言語が専門のジョン・ボズウェルが、聖書と同性愛についての本を書きました。
日本語にも随分前に翻訳されています。英語ですと、電子版が安いので、そちらがお勧めです。ジョン・ボズウェル。
これが聖書と同性愛に関する、本格的な研究書の一号でありました。

彼は、このロマ書の箇所を解釈しながら、自分の思いを吐露します。
「自然(の秩序)に反する」と言われても少なくとも私には当てはまらない。
そのような自然は私の心のうちには初めからなかった。存在していなかった。
私が異性というものを意識した時に、自然に私にとって好きな子は同性であったと。
ですから今更のように聖書を引用されて、
「あなたは男なのだから、女の人を好きになりなさい」と言われたら、
それは尋常なまでに、自分にとって、自然に反する行為だと。
なるほどなぁと思いますよね。
  
ボズウェルは「私には家庭でも学校でも居場所はなかった。」
ましてや、教会では私の居場所はない。
この聖書の個所をそういう風に解釈するにおいて、
1994年に、日本で最初の性転換手術が始まって、もう一万人を越えているんですよ。
その手術を受けざるを得なかった人物は、もう1万人を越えている。
受けずにその状態を保っていらっしゃる方は、その10倍はいらっしゃるでしょうね。
そうした方々を、教会が全部弾いていくとしたら、一体どうなっちゃうんだろうと思いますね。

ボズウェルが本を出してから30年後、
カンサスの田舎町、敬虔なクリスチャンの家庭に育ち、伝統的な教会に熱心に通っていたマシュー・バインズという人。
彼は高校を卒業してハーバード大学で学んでいました。
彼は大学2年の時に、長年格闘して来た自分という存在を公にします。自分はゲイだと。
ある日決心して、家に帰って自分はゲイだと、両親に告白いたしました。
彼は「その日は、自分の父親にとって最悪の日となった」と本に記しています。
お母さんも受け入れることはできませんでした。
そして教会も無理でした。
お姉さんが唯一理解してくれました、それはお姉さんのゲイの友人の方が悩んで、自殺をされたからですね。

日本でもそういう例があります。
困りに困って教会の牧師に相談し、教会は「あなたはそのままでは、神の救いから遠い存在だ」と。彼は自殺をいたします。
       
バインズは聖書の権威を全面的に信じる敬虔なクリスチャンです。
彼は大学を休学して、この問題を熱心に勉強し没頭いたします。
彼のテーマは、私の今回付けたテーマと同じです――「聖書は本当にそう言っているのか?」
やがて、彼は教会改革運動を主催します。
マシュー・バインズで検索されますと、チャーチ・リフォメイションというオーガ二ゼイションのサイトに行きます。何を目指しているのか?
「同性愛の方が一緒に礼拝できる教会に改革していこう」ですね。

バインズが本の中で大変分かりやすいたとえ話をしていますので、それを引用して終わりにいたします。
1614年、フィレンツェの司祭カッチーニがガリレオの地動説を弾劾する説教をいたしました。
教会が掲げてきた天動説――つまり、太陽が地球の周りを回っているという考え方――それは、聖書に反する、異端に相当する、という風にカッチーニはガリレオを責め立てます
もっとも太陽が地球の周りを回っているという、それらしき聖書の個所というのは実はないんですね。
ま、言うなれば、それらしき箇所は二つしかありません。

詩篇93:1「まことに、世界は堅く据えられて揺るぎません。」
伝道者の書1:5「日は昇り、日は沈む。」

私たちが立っている限り、太陽が私たちの上を巡っているように思いますけれども、聖書は宇宙のことについては、ほとんど何も記していませんよね。

ガリレオは、実は敬虔なクリスチャンでありました。
彼は聖書の言葉を否定した人物ではありません。
でも聖書のそれらの箇所は比喩的に解釈すべきだと考えました。
なぜなら詩ですから、詩をそのまんまの言葉で解釈しても意味がないでしょう。

彼はオランダで発明された望遠鏡を改良するんですよね。
水晶でできた、違う形状のレンズを一直線上に設置することによって、以前の9倍遠くのものが見える。
そして新しいレンズが、世界の見方を変えました。
今では、ガリレオの地動説を疑うクリスチャンは一人もいないじゃないですか。

性に関する新しいレンズは、1960年代から発見され開発されるようになります。
それは性と自分の性意識に関わる発達に多様性が見られる。
来週、次回は性分化疾患のことも話しますけれども、自分の中に、男性と女性の臓器が同時に入っているという場合もあるわけですよね。
受精卵が男性と女性に分岐して行く時に、ある時点があります。
その分岐の仕方に疾患が起こりますと、それは上手に分岐していかない。

つまり今までの世界観では、人間というのはすべからく男と女という性別二元主義でありました。
でもそこに問題があるのではないか、ということが1960年代に言われ始めます。
それは個人差もあれば、多様性もありますけれども、医学的にはホルモンや遺伝子に関わるということまで研究されるようになって、今は明らかです。
でもほとんどの教会、聖書を読む私たちは、その新しいレンズを使って世界を見ようとしない。

そして時に、聖書のある聖句をそのまんま読み取り、訳を間違えて解釈し、そして依然として古い世界観を保つ。
勿論聖書には、「神は、人を男と女に創造された」という言葉がありますよ。
でも性分化疾患を考えると、そこには多様性があるだろうな、勿論個人差があるだろうなというのは当然だろうと思います。
男と女ですべての性を判断することができないことは、もう科学の世界では立証された事実だろうと私は考えています。
一人一人の多様性を受け入れるのがキリスト。
そういう教会になりたいと、思うようになりました。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、私たちの周囲にも、もしかしたら私たちの家族にも、私たちの教会の中にも、そのような苦悩を背負っておられる方がいらっしゃるに違いありません。どこまでも人間的な見方で聖書を読み込み、時にギリシャ・ローマのような、私たちにとってはあまりにも信じられない性の乱れ、それと現代の苦悩をもって、自分の性のアイデンティティーと苦闘しておられる方が、あたかも同列であるかのように考えてしまう愚かさ。正しく聖書を読む者とさせてください。

そして聖書の権威を正しく用いながら、どこまでもイエス・キリストのよう
に、一人ひとりを大切にする私たちでありますように。またそのような教会にならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2022.11.06 インマヌエル高津キリスト教会礼拝説教より(藤本 満)

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