見出し画像

どくどく、と巡る【短編小説】【5500字】

 耳から流れ込んできた毒素がいつまでも体内を巡っている。どういう理屈か毒の棘を持ったことばは血液中に溶け込むらしい。そういう話をすると、有賀ちゃんは未成年は酒がなくて可哀想、と言ってワンカップをすすった。

 「わたしだって机を投げたくて投げたわけじゃないんだよ」有賀ちゃんはそうね、と薄ら返事をして、すっぱそうなイカの干物を噛んでいる。
「だって、よっぽどみんなのほうがひどいことしてる。あいつはデブでブスだからデブスって呼んだりとか、話に混ぜるふりして、マウントしたりしてさ。先生たちだって、明らかにいじられてる子ってわかってるのに、前髪が長いからって、前見えてるんですか?だってありえなくない?」挙げればキリがないくらいに溜まったイライラが出てくるけれど、隣を見て、話をやめた。有賀ちゃんがそろそろ酔っぱらいモードに入りそうだったのだ。ちいさくため息をついて、ペットボトルの水を差しだした。

 有賀ちゃんと会うようになってから2か月が経っていた。外にいるにはまだ肌寒かった3月から、まるで夏みたいな5月の寒暖差に四季はなくなってしまったのかもしれないと思った。

 有賀ちゃんは塾講師をしている大学生だ。色々あって今は休学しているという。大学名を聞いときは、わたしみたいな中学生でも知っているような有名どころだったので心底驚いた。そんな彼女と出会ったのは、約一か月前の3月のはじめごろ。わたしから見た有賀ちゃんは最悪だったけれど、有賀ちゃんから見たわたしの印象はもっと最低だったと思う。

 その頃、わたしは放課後になると必ずバスに乗っていた。それは通学のためではなかった。降りもしないのに、停留所の停車ボタンを押す。ただこれだけだった。きっかけは運転手の声にやる気がのなさにイラついたとかそんなことだった。溜まった毒の分、なにかしらで仕返しをしないと気が済まなかった。こんな行動に出るほどじゃなかったけれど、学校や家族、身の回り環境全すべてのイライラをだれかにぶつけたかったのだと思う。

 最初は罪悪感があったけれど、これがちょうどいいストレス発散だった。別に人を傷つけてるわけでも、泣かせているわけでもない。大したことじゃないから気づいたってだれも注意して来やしない。スリルと運転手や乗客を煽ることへの優越感で気づけば、中毒になっていった。

 その日もおなじように停留所のたびに、ボタンを押しては知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。バスの運転手のやる気のない声が車内に響く。それはやる気云々ではなく、だれも降りないことに苛立っているようにも思えた。そこへ肩を叩いて声をかけてきたのが有賀ちゃんだった。

 「ねえ、あなた降りないの?」とうとう声をかけてきた人がいたことに驚いたが、有賀ちゃんはやさしそうな見た目をした若い女性だったので咄嗟に言い逃れられると判断した。
「あ、間違えてしまいました。ご迷惑をおかけしてしまいすみません」用意していた回答を白々しく答えてみせた。あたかも本当に間違えたかのように。
「うそよ、さっきから何度も押してる」
「わたし、この辺に住んでないからよくわからなくて」
「それもうそ、この制服なら近所だってみんな知ってる」意外と食い下がってくる有賀ちゃんに腹が立ってくる。まったく言い逃れられそうにない。
「最近、転校してきたんですよ」
「へえ、こんなキリの悪い時期に?」
 わたしはとうとうムカついて立ち上がり、声を張り上げた。
「あんた、さっきからなんなの?しつこいんだけど」車内の視線が一斉に集まる。近くに座っていた人もイヤホンを外してこちらを凝視する。老人たちは眉をひそめて、こそこそと話をしはじめた。こちらを一瞥してスマホでなにかを打ち込む若者までいる。信じられない。こんな制裁を受けるほど悪いことなんてしてないはずなのに。なんでなんで、わたしばっかりこんな目にあうんだろう。あの日のクラスメイトの視線と重なって、発散したはずの毒素が煮える血液を逆流して戻ってくる。

 「降りるんですか?」荒々しいバスの運転手の声が聞こえて、停留所に止まったままなことに気づく。
 「あ、すみません。すぐに降りますので」そう言うと、有賀ちゃんはわたしの手を思いきり引っ張ると、そのままバスから引きずり下ろした。ドアが閉まると同時に、発車します、という運転手の声がフェードアウトするみたいに聞こえなくなっていった。

 「明日、ここに11時集合ね。来なかったら、今日のこと学校に連絡するからね」有賀ちゃんがここと指さしたのは、停留所の目の前にあるキリン公園だった。キリンの滑り台があるからみんなそう呼んでいる。

 有賀ちゃんはわたしのSNSのアカウントと電話番号を控えると、そう言い残して去っていった。わたしは怖くなった。行ったら、どんなことをされるんだろう。お金を要求されたり、悪い人たちに引き渡されたりするんだろうか。でも行かないわけにはいかない。母に知られるよりはマシな気がした。夕焼けに照らされて、キリンの影がどこまでも際限なく伸びているように思えた。


 翌日行ってみると、有賀ちゃんは座り込んだキリンの向かいのベンチに腰かけていた。キリンの背中は滑り台になっていて、兄妹が順番に滑り降りていく。なにを思っているのだろうか。表情からは伺いしえなかったが、肯定的な表情ではないことだけがたしかだった。

 あの…と声をかけると、有賀ちゃんはこちらを見て、あ、本当に来たんだ、と言った。てっきり説教でもされるのかと思って、身構えていた緊張が一気に解けた。それから有賀ちゃんは、有賀由美です。と言って、地面に漢字で本名を書いた。はい、使っていた棒を今度はわたしに手渡すと、本名を書くように促された。

「工藤栞、ね。じゃあ、工藤ちゃんで。わたしのことは有賀ちゃんって呼んでいいよ」はあ、緊張が抜けたまま、状況の整理がつかないわたしを有賀ちゃんは置き去りにした。

「工藤ちゃんいつもあんなことしてるの?」あんなこと、というのは人に迷惑をかけるような行為のことだろう。いつも、っていうか、たまたま、っていうか、とことばを濁らせると、
「あんなにずっとバスに乗ってたら、お金かかるんじゃないの?」有賀ちゃんはまるでそんな質問をしなかったかのように話題を変えた。
「わたし、母子家庭だから、路線バスは無料で乗れるの」
「へえ、そうなの、ライフハックってやつね」
「そう、なのかな」
「だから、っていうのは失礼なんだろうけど、学校サボってこんなところに来たの?」有賀ちゃんが怖くて、とはそれも怖くて言えなかった。それだけではなく、教室で机を投げてから、クラスメイトと顔を合わせるのがめっきり気まずくなったのだ。あんなことしたくなかった、という自分をコントロールできない恐ろしさとは裏腹に、されて当然だという攻撃的な自分がいるのだった。手を出したら前だと言うが、ことばがどれだけ毒を持っているのかをクラスメイトも友人も先生も、母親でさえも知らない。

 「工藤ちゃん、言わないであげるから。たまに会ってよ、ね?」有賀ちゃんの瞳はこぼれそうに潤んでいて、ドキッとした。しばらく見つめていると、手を握られた。重なった手が生温かくて、なんだかふれあいに心がぽっと灯るのを感じて、いいですよ。と返事をした。気づけば、母親と兄妹の姿はなく、公園にはふたりだけになっていた。


 「迎え酒みたいなもんだ」有賀ちゃんは言った。いつもお酒で例え話をしてくるけれど、よく伝わってないことを彼女はわかっているのだろうか。
「毒を以て毒を制す的なこと?」
「そう、的なことよ」
「工藤ちゃんは毒の分解の仕方を知らないから、荒療治に出ちゃうわけだよ。こどもだねえ」有賀ちゃんはコンビニのビニール袋からもうひとつワンカップを取り出すと、勢いよく蓋を引っ張る。すこしこぼれて、指に垂れた日本酒を愛おしそうに舐めとった。
「有賀ちゃんにはわかんないよ」会うときはいつも酒ばかりを飲んで、へらへらしている。わたしたちが会うのは大抵が平日の昼間だった。平日の昼間にお酒を飲む人間はわたしの周りには有賀ちゃんしかいなかった。
「わかるよ、わたしだって子どもだったんだから」
「今もじゃん」コンビニの袋からポテトチップスを取り出して、封を開けると、コンソメのべったりとした匂いがした。有賀ちゃんはのりしおが一番日本酒に合うと言って、いつもはコンソメを買わせてくれない。こういうところはこどもっぽい。

 はじめはぎこちなかった有賀ちゃんとの会話も今はとても心地がいい。有賀ちゃんのことばには毒素がない。いつもやわらかく傷つけない。過度にほめたり同調しない代わりに、人を貶したりは決してしなかった。聞いていても、全身が淀んでいかないのがわかる。こんなことははじめてだった。だから、有賀ちゃんはわたしの中で、家族や友人、クラスメイトよりもよっぽど安心できる人だった。

 「ねえ、有賀ちゃんってどんな子どもだったの?」有賀ちゃんは、わたし?と聞き返すと、そうだなあ、とか、うーん、とか散々呟いたあとで
「優等生かな」と言ったので、わたしはつまんなーいと返した。
「反抗もしなかったし、勉強がたまたま得意だったのよ。だから親から見れば、問題ないように見えた。それが世間が言う、優等生ってだけよ」
「そうだよね、だってすごい大学通ってるもんね、あーあ。わたしとは全然違うね。有賀ちゃんみたいになれたら、生きやすかったのにな」
「わたしは工藤ちゃんが羨ましいけどね」
「なんで?ばかにしてる?」
「してないしてない。工藤ちゃんっていい意味でも悪い意味でも正しく子どもなんだよ。まだ中学生でしょう?これからいくらでも変わるチャンスがある。工藤ちゃんの敏感な耳もこれからすこしずつ必要なことばと要らない言葉を聞き分けられるようになるよ」有賀ちゃんはこうやってときどき、大人みたいなことも言う。子どもにも大人にもなれる有賀ちゃんの姿は大人として正しい気がした。

「ねえ、お酒の飲めない工藤ちゃんにイイモノあげるよ」そう言うと、有賀ちゃんはビニール袋からラムネを取り出した。
「ラムネ?」
「そう、工藤ちゃんラムネ好き?二日酔いにも効くから常備してるんだよね」そう言って、一粒取り出して、わたしの手のひらに乗せると、
「ねえ、なにか嫌なこと、思いだしてみて」
「そんなこと急に言われても、」
「いいからいいから」嫌だったことや苦しかったことというのはすぐに思いだせてしまうから困る。
「今朝も、母にだれに食わせてもらってるんだって言われた。勝手に生んで、勝手に父親と別れといて、ふざけてるよね」ことばに出すと、ふたたび自分の脳内に毒素が巡ってくる。
「はい、じゃあ食べて」と有賀ちゃんに言われて、手に持っていたラムネを口に入れた。周りからほどけるように溶けてした全体に甘さが広がっていく。
「工藤ちゃん、今後なんかあったら口にラムネを放り込むといいよ。ぜんぶ飲みこんで、胃液に溶かしちゃうの。血液なんかに巡らせない。これを繰り返していけば、工藤ちゃんはきっとすこし大人になれる」


それが有賀ちゃんとの最後の会話になった。程なくして季節は梅雨に入った。外で会うことができなくなったからか、有賀ちゃんからは一向に連絡はこなかった。それでも、有賀ちゃんのラムネがあるだけで、心は拠り所を見つけたように穏やかだった。ラムネさえあれば、教室だってなんとか座っていられることができた。勿論、お菓子を学校に持ち込むのは禁止だったけれど、工夫すれば案外とバレることはなかった。心が安定するだけで、耳も少しずつ利口になった。

ある日、クラスメイトのひとりが足に怪我をしていた。複雑骨折だという。「まじでありえねえよ、これ塾の講師せいなんだぜ?」
「やばくない?そいつクビにした方がいいよ」
「わたしそのときの動画持ってるよ」

「わたしは優等生なんだからー!」聞き馴染みのあるその声は悲鳴にも似ていて、わたしは一気に全身の毛が逆立つような気がした。

「やばいやばい、音量下げて」
「スマホ持ってきたのバレる」

「ね、ねえ、それ見せて」クラスメイトの輪をかき分けて、わたしはスマホを奪い取った。なにすんの、とクラスメイトの怒号が他人事のように遠くに聞こえた。それは塾の教室での映像だった。有賀ちゃんはなにかを叫んでいる。途中からの映像のため、前にどんなことがあったのかはわからない。教卓をひっくり返すと、クラスメイトがぎゃっと鈍いうめき声をあげた。有賀ちゃんはそのままその場に崩れ去りうずくまったまま動かない。そこで映像が乱れて終わった。

なにこれ。なにこれなにそこれ。有賀ちゃんが言ったんじゃん。困ったら、毒素なんか飲みこんじゃえって。耳から入っても、喉になんかしら通せば、一緒に胃で溶けるって。有賀ちゃんは肝臓だったのかもしれないけどさ。どこ行っちゃったの。有賀ちゃん。ねえ、帰ってきてよ。わたしの肝臓なんてあげるからさ。

「工藤、ちょっといいか」教室の扉が開いて、先生が呼んだ。ふたたびわたしに視線が集まる。それでもこの前とは違う。わたしは先生の前でも堂々とラムネを口に放り込んだ。全身にビリビリとした甘さが駆け巡って、脳天を殴った。わたしの脳内は冷静だった。有賀ちゃん、わたしきちんと弁明して見せるから。夏の暑さのせいだろうか、冷静さと反比例するように全身から噴き出す汗が制服に染み込んでいく。額の汗は毒々しいほどしょっぱい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集