「足ることを知る」の変遷
「足ることを知る」
知足ともいわれて、よく知られた禅語であり、誰しもきいたことがある言葉だと思います。
言葉自体は若い頃から知っていましたが、20代の時は贅沢なことに憧れず、調子に乗らずに身の丈にあったことで満足してれば、穏やかに充実した日がすごせるという意味に感じていたように記憶してます。
清貧で謙虚なイメージでしょうか。
ただ、どこかで諦めましょう。上をみなければ他愛もないことでも楽しいよという悲哀めいた印象があり、あまり好きな言葉ではありませんでした。
歳を重ねてからでしょうか。その意味が、少しずつ変わっていきました。
仕事もプライベートも悪くないし、30代になると自分の家庭もできました。
キャリア的にもスタートアップに転職したりしましましたが、博打は打たず、ボラティリティの小さな方だと思います。
ただ、歳を取るたびに感じる違和感。
仕事で大きな成果をだしても、役職が良くなってもその喜びは一過性で、すぐに虚しくなる。
そう、足ることはわきまえているはずなのに自分はまだまだ満足できない。なんか満たされない。
その正体は何なのか、いろいろなことにチャレンジしながら随分と考えてました。
そしてある時、その正体に気がつきました。
それは、毎日起きる小さな出来事に無自覚でいることでした。
朝日を見て洗われる気持ち、散歩の時に感じる季節の移り変わり、夏の日に感じる涼風、
など自分の周りではいつも何かが起きている。
なのにそこに「在るもの」を素通りして、SNSを無目的に眺め、本にある知識を表層的にインプットしていく変わらない(と認知した)毎日を過ごしていました。
「よふかしのうた」という漫画にこんな台詞がでてきます。
ここで「足ることをしる」
は全く違う意味を持ってわたしに降りてきました。次のようなニュアンスです。
あなたのまわりには、価値あることが常に存在していて、その出来事を喜び味わいつくせなければ、あなたは幸せになどなれないよ。
あなたにそれができるかな、、と。
なんて強欲な感じで挑戦的なメッセージなんだろうと自分の中にメラメラと闘志が湧いてくるのを感じました。
それと同時にわたしは幸せを感じる道をみつけたかもしれないという希望を感じました。
結局は毎日起きる出来事を味わい尽くす。
近道はなくて、それが王道なんですね。
「足ることを知る」の意味は40代になり、こんな風に変遷していってます。