おもてなしをなくそう
こんにちは。ヨシミツダです。
今日は、「なぜ?」って思われそうですが、日本のよさと呼ばれているおもてなしをなくそうという話です。
いろいろ考えた結果、おもてなしのマインドが日本人を苦しめる元凶になっているという考えに至りました。
「おもてなしやめませんか?」
という提案です。
おもてなしを支える日本人気質
おもてなしの背後にあるのは、島国である単一民族の中で培われた高度なハイテクストコミュニケーションです。簡単にいうと、言われなくても人がやって欲しいことがわかるよねという共通認識です。
「日本人の特性である細やかな心遣い。」
とよく言われますが、共通認識のもと未来を先読みして、やった方がよさそうなことを率先して実行しています。共通認識があるからこそ、細かいことを気にかけることができます。
細かすぎる気遣い
しかしながら、インバウンドで日本にくる海外旅行者ではない、日本人の私から見ても「それ、いる?」みたいなサービスを散見することがあります。また、もはやサービスの受け手がどう思うかということを考えることよりも、規則のように定められているから(何も考えず)やっているようにも見えます。やっていること自体は害悪がないので、クレームになることはありませんが、本当に必要なことでしょうか。
期待という名の攻撃
こういったおもてなしの行為がサービスとしてアンカリングされた結果、期待したことをやってもらえない場合に不満や、ひどい場合には攻撃的なクレームになったりします。アンカリングというのは、認知バイアスの一種であり、先行する何らかの数値(アンカー)によって後の数値の判断が歪められ、判断された数値がアンカーに近づく傾向のことをさします。特に悪いことをしているわけでもないのに、アンカリングのためにサービサーの精神は擦り減っているのです。
情報過多な反応社会
SNS全盛の世の中には、玉石混交の情報が溢れており、人は情報を活用して考えを深めているというより、ほぼ動物的に反射しています。
さまざまなサイトにクチコミがあり、サービサーの方達は、その反応に一喜一憂しているのではないでしょうか。
前述したアンカリングされた期待により、細かいレベルの不満すら、批判の対象としてレビューに書かれてしまいます。こういったサービスにさらされている私達は知らず知らずのうちに交感神経優位な状態になっており、脳は疲弊しているのです。
期待しないという優しさ
ドイツ人の暮らしを本で学ぶ機会があったのですが、彼らは今でも日曜日はお店はあまりあけず、従業員も日本のように特にお客に媚びることもありません。ビール用のコースターを投げて渡すこともあります。
しかし、彼らは特にこのようなサービスに憤慨することはありません。いい意味でサービスに期待しないという共通認識を持っているからです。
個人主義な彼らは、できることは自分でやるからというマインドがあります。なので、特に問題にしないのです。
ところで、ドイツ人のマインドは日本人に似ているとよく言われますが、ドイツ人のこの自分のことは自分でやるというマインドは、日本人にも共通するマインドでもあります。日本人は、おもてなしマインドで、他人に気をくばりつつ、自分のことは自分でやるという、ダブルのコミットメントを自らに強いているかなりストイックな民族なのです。
過度な期待をせず、許容し、問題にしないドイツの人の態度は一見いいかげんなようにも感じますが、実は優しさの一種であると感じるのです。
アンカリングの方向を変える
ここまでで、私がいいたいことはおもてなしするのはいいけど、それを暗黙のうちに求めたり、期待値を高くもって失望したり、批判したり、攻撃したりすることはやめませんかということです。
個人的には機械的にしか、やっていないようにしか見えないおもてなしはやめていいと思っています。
ただの苦しみの源泉にしかならないからです。
選択が社会を作っている
このようなおもてなしの裏側にある過剰に高くアンカリングされた期待により、傷ついている人達は、数多くいるのではないかと思います。
先日、急死した日本のとある大企業の社長のことがコラム記事になっており、朝駆け土下座は当たり前という表現がありましたが、労働において土下座が当たり前にデザインされている仕事とは健全なのかと考えるものがありました。まるで、美談のようにそんなエピソードが苦労話として数多く書かれてましたが、私には過剰な期待値により、心身を痛めてきた人が、まるで糸が切れるように命が消えてしまったようにしか思えませんでした。
そういった過度な期待値に振り回されるのは、やめませんかという提案でした。
期待値を低くアンカリングして、一人一人の選択でもっと寛容な社会を作りませんか。
それではまた。
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