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句集を鑑賞しましたシリーズ! 森澄雄の百句(ふらんす堂、岩井英雅著)を鑑賞してみました( ´ ▽ ` )ノ

著者の岩井英雅先生が茨木市俳句協会の会長であり、ご縁をいただいている関係でこの本を読ませていただきました。
森澄雄氏の俳句をじっくり拝見したのは初めてでしたので、これまでに味わったことのない感覚を味あわせていただきました。
死生観を感じる句が多かったのですが、嫌らしくなるギリギリのところが何とも味わい深いです。

除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり

”除夜の妻”という修辞と”湯浴み”という修辞が醸し出すエロティシズムがとても好きです。それが、白鳥のごとであるというのですからね。
なんとも妖艶さがとても美しいです。

冬の日の海に没る音をきかんとす

冬の太陽が海に没していく様子の音を聞こうとしている作者。”きかんとす”という修辞から少し上から”きいてやろうか”という雰囲気が漂ってくる。実際には、冬の日が海に没して音が発生する訳はないが、詩人としての鋭い感性を感じる一句です。

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華

茨木には西国街道があるので、その街道沿いに広がる田んぼの畦を思い浮かべました。そこに埋めつくされんばかりの曼珠沙華が咲きに咲いている。
曼珠沙華のリフレインで西国すべてを曼珠沙華が覆っているかの壮大な景色を感じることができます。

若狭には仏多くて蒸鰈

若狭には、仏が多いのでしょうか?知らないのですがそうなのかなあとも思う。蒸鰈は若狭の名産のようですが、食べたことはありません。ネットで検索した画像がとても美味しそうなので一度食べてみたいです。
蒸鰈が美味しいのは、仏が多いからなのかもとか考えてしまう。
何だか分からないが、何となく若狭の名産の蒸鰈が仏をキーワードにして繋がっていそうな気がする。なんでかわからんけど。

炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島

”炎天より”ということで実在の僧というよりは、かげろうのごとく異界より怪しく出現してきたような感じがする。岐阜羽島ということで駅の尽力した政治家を思い浮かべる。その政治家の供養の為の僧なのかもしれない。

昼酒もこの世のならひ初諸子

昼酒をすることもこの世のしきたりなのだと、それは、諸子がとれたからだと、豪快に昼から日本酒を煽っている感じがする。

煦々として鷹とて鳩となりにけり

とても暖かい春の一日を感じることができる。
くくとしてという修辞も上手いですね。鳩の鳴き声を思わせます。

山吹の黄金とみどり空海忌

山吹の花の黄金色と葉っぱのみどり色が綺麗に思い浮かぶ。
空海と山吹は何か関係があるのだろうか?
関係があろうとなかろうと何だか繋がっていそうな気がする。

おのが息おのれに聞え冬山椒

自分の息の音が聴こえるほどに神経が研ぎ澄まされているのでしょう。冬は特に神経が敏感になるような気がする。
冬山椒を前に自分の命と向き合っている繊細な雰囲気がピリピリする。

秋山と一つ寝息に睡りたる

秋の山と息を合わせている作者。とても鋭敏な感性だと思います。自分の寝息が秋の山の寝息と同期していると感じる作者。
素晴らしく繊細な感覚に脱帽です。

億年のなかの今生実南天

地球誕生の46億年における今の世という壮大なスケールの中の南天の赤い実。自分の小ささを噛み締めながら南天の実を改めて眺めたいと思いました。

はるかまで旅してゐたり昼寝覚

昼寝で何処までいってきたのでしょうか?もしかしたら将来生まれ変わった自分の魂と会ってきたのかも。はたまた、過去の自分と会ってきたのかもなんて想像します。

妻がいて夜長を言へりさう思ふ

私も妻の句を詠みたいなあって思って沢山作ったりしているのですが、陳腐になってばかりです(泣)
妻という存在があるから夜長というものが存在している。そう思うのだと、だめ押しをしている。俳句で”そう思う”なんていう言葉を入れることが出来るんやとびっくりです。俳句とは、”そう思う””そう感じる”ということを詠むわけですから、それを言葉にしたら余計な言葉になるのに…。この句には、”そう思ふ”という修辞が機能してますよね。
ぼそっしたつぶやきなので機能してるんかなあ。
知らんけど。

死ぬ病得て安心や草の花

一病息災といいますが、死ぬ病気を患うと安心の境地になるという大胆な心持ち。そして草の花という小さな景色の繊細さといい感じで響いているように感じる。

帰らんと我はいづくへ鳥帰る

鳥は帰るべき場所がある。でも自分は何処に帰ったら良いのだろうか。鳥は帰ってしまうのに。
これは、現生の帰る家というよりは、作者のたましいの帰りどころなのだと感じる一句です。

美しき落葉とならん願ひあり

俳句的には、”美しい”とか”願い”という言葉は使ってはいけない言葉だという風に教えられます。
その言葉を用いながらとても繊細な俳句だと思います。
作者の言葉からは、俳句を通じて読み手に何かを伝えたろうという下心がないように感じました。作者の下心が少しでもあると”美しい”とか”願い”とかの言葉を嫌らしく感じるのだと思うのです。
作者の魂の叫びとしての思いが言葉として表現されているので、作者は自分の死後は、美しい落葉になりたいのだと、読み手のこちら側にも強烈に訴えかけて来るものがあるのだと思いました。
俳句は、作者の生き様とセットなのだと感じる俳人が森澄雄でした。


生と死のはざまにおける生のぎりぎりのところを俳句にしてまとめているのが森澄雄という俳人だと感じました。
これまでに感じたことのない新しい刺激をいただきました。
ありがとうございました!


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